映画『パーフェクト・デイズ』と禅的な幸せ―今の瞬間を生きると今日が輝く

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映画『パーフェクト・デイズ』は、東京・渋谷の公共トイレ清掃員、平山さんの日常を描く長編映画です。主演・役所広司さんは、第76回カンヌ国際映画祭最優秀男優賞を受賞されました。ミニマムな暮らしを丁寧に生きる平山さん。その姿に私は禅的な幸せを見て、私が経験したアメリカの禅センターでの暮らしと江戸時代の禅僧・良寛さんのことを連想したんです。

『パーフェクト・デイズ』に見る禅的な幸せ

話題の映画『パーフェクト・デイズ』を観ました。

物語の主人公は、トイレ清掃員の平山さん。
彼の生き方には、私が学んできた禅的な幸せがありました。
たとえばそれは、日課を淡々と丁寧に生きること。
与えられた仕事を一心に打ち込むこと。
欲や競争から自由で、人に温かく誠実なこと。
感受性を開いて、木漏れ日などの自然が放つ一瞬の美を味わうこと。

私は会社を辞めて、アメリカの大学で幸福心理学を学んだ後、禅センターでしばらく暮らしていました。
あとさき考えずにやったことだから、帰国後はお金に困ったり病気をしたり。
昨年は父も亡くしました。

そして6年経った今、ようやくわかったことがあります。

おそらく私がアメリカで学んだことは、心理学の知識や英語力というよりも、当たり前だと気に留めなかった日常の価値に気づく力でした。
これまでの私は、いつも自分にないものを追い求めていました。
いつだって自分にないものを見ていたんです。

この会社じゃなくて、あの大学やスピリチュアルセンター。
日本じゃなくて、アメリカ。
目の前の人じゃなくて、有名な先生や世界的な聖者たち。

その心は、こんな気持ちでいっぱいでした。

もっと高い学位をとらないと。
もっとお金を稼がないと。
パートナーがいないとダメだとか。

もっとこうなりたい、もっとこれが欲しい。

有名なアメリカの大学の研究室で幸福心理学を学びながら、ずっと満たされていなかったと思います。

そんな心を反映するように、突然家を追い出されたり、強盗に持っているものをぜんぶ奪われてしまって、フードスタンプに並んだこともありました。

水も電気も走っていないナバホ族の集落では、死にかけたこともあります。

それらはすべて、当時の自分の心の思い、「足りない」「これじゃダメ」を再現した世界に生きていたんだと、今はわかります。

参考:ありのままの自分で本当に幸せになれるの? マガジンハウスからホームレス編集者へ。アメリカ先住民ナバホ族の集落で死にかけて学べた私の幸福学。

今思うのは、それらの経験を経たことで、
食べるものや住める家があること。
夜ひとりで歩いて図書館に行けること。

そんな当たり前とか、平凡でつまらないと思っていたことがすごく幸せだったんだということ。
それに気づく力を、アメリカの体験が養ってくれたんだと思います。

重度の顔面麻痺(※)になったときは
まっすぐ歩けない、
普通に食事できない、
パピプペポが言えないという経験をして、

(※)ジャスティン・ビーバーがなって広く知られるようになったラムゼイ・ハント症候群

体が自由に動くことは、幸せな奇跡の結果なんだとわかりました。

その後、父が悪性リンパ腫になって、1年半の介護の末に彼を亡くしたときは、

トイレに行きたいと思ったときに自力で行ける。
食べものをおいしいと食べられる。
目の前の人としっかり向き合える時間がある。

そんな当たり前のことが、とても豊かなことだったんだと痛いほど理解しました。

ずいぶんと時間がかかってしまったけれど、アメリカに渡って帰国してからもたくさんのものを失ったことで、自分がすでにたくさんのものを持っていたこと。満たされていたことにようやく気づけたんですね。

だから、アメリカでは主に学費で1000万円以上使って、貧しくて食べるものに困ったり、情けなかったり辛いこともたくさんあったけど、最高に良いお金と時間の使い方をしたなと今は思うんです。

私の好きな貝原益軒の養生訓にもある、これまでの自分の不健康な心の状態、

手に入れにくいものを追い求め、手に入れやすいものに目を向けないのは愚かなことだ

にハッと気づくことができたんですね。

それを実感するために必要なのは、今にじっと心を置くことです。
そこで、今でもそれを忘れそうになるとき、ちょっと立ち止まって今の自分を感じるようにしています。

それは、今という一瞬が織りなす奇跡に心を開くこと。

辛いことも、嬉しいことも、寂しいことも、楽しいこともしっかり味わうこと。でもそれに囚われないこと。

『パーフェクト・デイズ』の平山さんの姿から、改めてその気づきを心に留めることができました。

とはいえ作品では、平山さんの誠実さやひたむきさは、バカにされたり邪険にされたりすることもあります。

そこで物語が進むうちに、おのずと平山さんの笑顔を願う自分がいました。

彼のすがすがしい生き方は、私に江戸時代を生きた禅僧・良寛さんをほうふつとさせました。

そんな禅的な幸せを生きる。
それは、私にとって忘れず守りたい、味わいたい世界。お話ししたいと思います。

映画『パーフェクト・デイズ』を観た理由

私のこの映画を観たきっかけは、約2か月前の朝に始まりました。

その日の日経新聞の朝刊に

誰かと競うためではなく、見せびらかすためでもなく、
ただ自分ひとりを満たすものだけに
囲まれた静かな生活にひかれる。

という一文から始まる、映画『パーフェクト・デイズ』の主人公・平山さんの生き方にふれた素敵なコラムが書かれていたんです。

その締めくくりの一文は、

内面の生活さえ豊かならば人は幸福でいられる。
老いもひとりも恐れることはない。

昨年父を看取り、ひとりで生きることがいよいよ現実味を帯びてきた私。
数年前には、私も大きな病気をしました。

だから、やりたいことができて、大切な人たちと過ごせる時間の貴重さをひしひしと感じています。

やりたいことというと別に特別なことだけを指すわけではありません。
すごいと思われる偉業や大きな夢、リッチな旅行などの非日常の世界も素敵です。

けれども、今の私が思う幸せとは非日常の刺激よりも、すでに目の前にあることへの感謝から得られるもの。
つまり、すでに持っていて、満たされていることに気づき、それを味わうことです。

つまりやりたいこととは、たとえば今トイレに行きたいと思ったら、ひとりで用をたせること。
お腹がいい感じに空いて、食べるものがあって、それをおいしく食べられること。
目の前の人と、会話できること。

そんな当たり前すぎてそれが「やりたいこと」とは気づきにくいけれども、今の自分が幸せにもできていることです。

そこに気づいて感謝できる内面の豊かさが、どれほど人生を豊かなものに変えてくれるのか。
そう痛感します。

数年前の顔面麻痺では、今も少しだけ後遺症が残っています。
この病気は正直、かなりつらかったです。
顔が壊れていくことも女性として受け入れがたいものだったし、体の平衡感覚をつかさどる三半規管がおかしくなるので、最初のうちはまっすぐも歩けませんでした。

そして口がうまく閉じられないから、コーヒーを飲もうするとこぼれてしまう。
ずっと船酔いのような気持ち悪さがあって、気晴らしをしたくても、本が読めません。

今も左側の顔は動かしにくいし、しっかりまばたきできないから左目が痛くてよく充血します。病的共同運動といって、食事していると、左目から涙が出たりもします。乗り物酔いもしやすいし、耳がつまったような感覚にもたびたびなります。

けれども、この経験で口がちゃんと動いて好きなコーヒーが飲めること。
吐き気や痛みがなく目が覚めること。
普通にまっすぐ歩けること。

そんな当たり前だと思っていたことが、どれほど恵まれているのかに気づくことができたんです。

参考:マガジンハウス社員からホームレス編集者へ。 アメリカの禅センターで体験したお金を交わさない豊かな暮らし。 交通事故、顔面マヒで入院し気づいた私のお金のブロックを解除する

その後、父が悪性リンパ腫になって最終的には立ち上がれなくなり、薬効の甲斐なく亡くなりました。

参考:亡き父を偲んで。闘病と臨終に立ち合い、父から教わった生と死について。

私たちがこの肉体をもって、健康に好きに生きられる時間には限りがあるんですね。
だから、遠いどこかやほかの誰かではなく、まず今ある場所で目の前にいる人と向き合うこと。

別に置かれた場所で咲かなくてもいいけど、置かれた場所ですでに咲いていることに気づく。
当たり前の毎日を丁寧に生きることがどれほど幸せなことなのかを深く教わりました。

そんな気づきがあったあとで、この『パーフェクト・デイズ』について書かれた日経のコラムは、心にとても響いたんです。

そして、その午後。何気なくメールを開くと

映画「Perfect days」と禅について、Ayaさんの記事を読んでみたいなと思いました。

という知らない読者さんからのメッセージ。

私はつながりのないように見えるところから3回同じメッセージがやってきて、自分の心が動いたら乗っかってみることにしています。

早速上映情報を調べると、翌日はちょうどサービスデー。
後押しされていると感じて観に行ったのが約2か月前のこと。

どうお話ししようと思っているうちに、こんなタイミングになってしまいました。

観てすごくよかったです。
メッセージをくださって、どうもありがとう。

とくに平山さんの最後の表情、あの顔を観るだけでもこの映画を観る価値があります。
あの顔は、言葉以上に私の思いを代弁してくれたようで、とても胸にしみました。

平山さんが生きるパーフェクト・デイズ。

さて『パーフェクト・デイズ』というタイトルで、なにが”パーフェクト”なんでしょうか。
そこでわたしが随所に見た完璧性とは、一瞬一瞬を生きる平山さんの禅的な幸せのあり方です。

“パーフェクト”とはいっても、この映画では、あっと驚くようなドラマティックなことは起きません。
大スペクタルなハリウッド映画でもないし、Netflixで人気のハラハラドキドキ惹きつけられるドラマのようでもありません。
そこを期待すると、この映画では肩透かしを喰らうでしょう。

もちろん、作中では心揺さぶられる出来事も起きます。
たとえば実家と縁が切れた平山さんに突然姪が訪ねてきたり。平山さんがほんのり気持ちを寄せる小料理屋女将の元夫が登場したり。
それらはすべて、あくまでも私たちの日常でも起きるレベルの心をざわつかせるような出来事です。
そして中心に描かれるのは、トイレ清掃員の平山さんの日常生活。

ありきたりの日常を丁寧に、淡々と生きる平山さんの姿です。

会社を辞めてアメリカに行き、最終的には禅寺やスピリチュアルセンターに住み込んで…と、非日常を追い求めて目の前の大切なものを見失っていた私には(※けれどもそれらの経験は、そのことを気づかせてくれた宝物でもある)、自分のこれまでを振り返るよい映画でした。

そして規律正しくルーティンをこなす平山さんの姿を見るうちに、私を変えた禅修行のことを思ったんです。

というのも平山さんの日常は、まるで永平寺をはじめた鎌倉時代の禅僧・道元の教え

一瞬一瞬のすべてを丁寧に生きて、在るべきようにつとめること。

を生きる僧侶のようにも見えたんですね。

そして、彼の整頓された暮らしと心の温かさ、誠実さ。甘い言葉で取り繕うのではなく、言葉少なく行動で示す姿勢。
それらは、江戸時代を生きた禅僧・良寛をほうふつとさせます。

もちろん平山さんは禅僧ではないし、この映画に宗教的な要素はありません。
けれども、彼の日課を丁寧に生きる姿にその精神が垣間見られたのです。

平山さんは毎朝決まった時間に(お寺を掃除するおばあさんのほうきの音で)目覚めて、
布団をきちんとたたみ(永平寺のお坊さんと違ってドスンと音をたてますが)
採取したモミジなどの幼木のお手製「盆栽」に霧吹きで丁寧に水をやります。

そんな暮らしを彩るのは、必要最低限ですが、厳選された彼の心を満たすもの。
家に冷蔵庫はなく、食べものや飲みものも買いだめしない。まるで托鉢で生きる僧侶のようです。
平山さんは、毎朝同じ缶コーヒーを1本出勤前に、電球が切れかけて点滅する、アパートの前の古い自動販売機で購入するんですね。

また本好きの平山さんですが、本も買い溜めしません。そこで、積読状態になることはありません。
1冊を読み終えたあとに、近所の古本屋さんで100円の文庫本を吟味して次に読む本を買うのです。

作中で平山さんが読む文庫本は、幸田文の『木』。
映画と同じ装丁版手頃なリニューアル装丁版

花や木にまつわる15のエッセイを収蔵。

幸田文も木の幹を着物の柄にたとえるなど
強く草木に心を寄せる人でした。
その感性の鋭さは、植物にあかるくない私にはついていけないほどですが、本書を読めば読むほど
彼女と平山さんは良い友人になっただろうなと痛感しました。

足るを知る。
必要なものだけに囲まれた慎ましい生活。

しかし平山さんの生活には、余白から生まれる余裕があるんですね。その余白は、豊かにすらうつります。

平山さんと禅僧・良寛さんの共通点

平山さんと禅僧・良寛さんとの共通点は、暮らしぶりなどたくさんあります。

良寛さんは出雲崎の名手の家の生まれ。その立場を捨てて出家しました。
彼は、すぐれた僧侶であるだけでなく、書や歌の名手。そこで、その気があれば裕福な地主たちに支援されての生活もできました。

けれども彼が選んだのは生涯寺も伴侶も持たない乞食僧としての生き方。
炉も裏にトイレもないあばら家で、托鉢で得た食べ物でその日暮らしの乞食僧です。

その姿は、裕福な実家との縁が切れ、トイレ清掃員として押上にある古いアパートで生活する平山さんの暮らしぶりとも重なります。

books

禅的な幸せを味わえる私のおすすめの本。
(左)『まがったキュウリ』私もトイレ掃除をし続けたカリフォルニアにある禅センターを建立した曹洞宗のお坊さん・鈴木俊隆老師の本。映画のようにドラマティックなお話。鎌倉時代に曹洞宗を始めたのは、この先にお話しする道元禅師です。

(中央)『風の良寛』この先にお話しする良寛さんについて丁寧に書かれた本。心が洗われます。

(右)『おおきな木』村上春樹さんが訳した絵本。禅的な幸せの境地とは、このおおきな木のような生き方かなぁと思っています。

また、ふたりとも欲や競争から自由で、人に温かく優しい。

たとえば平山さんは、迷子の男の子と彼の母親を一緒に探して、彼女を見つけたとき。男の子の母親は平山さんにお礼を言いません。

それどころか、トイレ清掃員の彼がつないでいたほうの男の子の手を「不潔」だと、無意識に除菌シートを拭いて立ち去ります。

そこで平山さんは少し悲しい顔をします。けれども男の子が振り返ってバイバイと振る手を見て、気を取り直して微笑みます。

心を閉ざさないのです。

良寛さんもまた、あるときみずぼらしい姿だからと火事の犯人と間違われて生き埋めにされそうになりました。

一切の弁明をしないので殺されそうになっていたとき、幸い知り合いが通りかかり、誤解が解けて命拾いしました。

のちに「なぜ自分ではないと説明しなかったのか」と尋ねられた良寛さん。

その返事は、「みながそう思い込んだのだから、それで良いではないか」と達観しています。

ふたりとも、一番大切なものさえ守れたらもういいんですね。

では彼らの一番大切なものとはなんでしょう。

さらに踏み込んでみましょう。

平山さんが迷子の男児に温かい心を傾けたように、良寛さんも「子どもの純真な心こそが誠の仏の心」と小さい人たちに敬意を傾けていました。

子どもたちと鞠つきに熱中して無邪気に遊ぶ良寛さんのことを、

「大人なのに働きもせず修行もせず子どもと遊んでばかり」
「こじきのような馬鹿だ」

と眉をひそめる人も少なくなかったようです。

平山さんもトイレ掃除のプロフェッショナルですが、多くの人には評価されず、世界の片隅で生きる人です。

誠実に生きて丁寧な暮らしを営んでいても、疎遠になった裕福な実家の妹からは、

「本当にトイレ掃除(を仕事に)しているの?」
「本当にここで暮らしているの?」

とギョッとされています。

ふたりとも世間的な評価を求めず、ひとり静かに生きている。
といっても、平山さんも良寛さんも人間関係を放棄し、外の世界と自分を切り離しているわけではないんですね。

むしろ、100%感受性を開いて生きている。

痛みも喜びも感じて、侮蔑や怒りもすべて受け入れて。
心をいまここに傾けている。

そこがすごいなぁ。芯があって、強い人だなぁと思います。

たとえば平山さんは、清掃中に酔っ払いがトイレに駆け込んだことで仕事を中断されたとき。その余白時間で、公衆トイレの壁越しから見える木漏れ日の光を眺めて微笑みます。

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神社で簡単な昼食をとっているときに居合わせたOLさんに会釈して不審がられたとき。木々に心を寄せて気を取り直し、お気に入りの古いカメラで写真を撮ります。

感じる心を閉ざさないのです。

そして、ふたりは人に与えられる人。

たとえば、同僚のタカシに金を無心された平山さん。そして平山さんは、彼が1日を過ごすための全予算、2千円をタカシに渡します。

トイレ掃除後の楽しみの一番のりの銭湯も、夕食代わりの一杯飲み屋も断念。そして、薄暗いアパートの一室でいつ買ったのかもわからないカップ麺をすすって1日を終えます。

良寛さんもまた、多くは持たないけれど、与えられる豊かな人なんですね。

たとえば、良寛さんのあずまやに泥棒が入ったときのことです。

粗末な家でほとんどものがなく、盗むものがないので泥棒は良寛さんが寝ている布団をはぎ取ろうとしました。

良寛さんは寝ているふりをして、泥棒が布団をとりやすいようにわざと寝返り。そして詠んだのが、この有名な歌。

盗人に取り残されし窓の月。

泥棒がなんでも盗んでいったが、窓から見える美しい月は取り忘れていったなぁ。

そんな歌を詠んでしまうなんて、すごい境地ですよね。

多くの物を持たず求めず、けれどもその心はとても豊かです。

そして彼らは評価を求めなくても、天に与えられた仕事を一心に打ち込みます。

平山さんは禅修行を行う僧侶のように、誰かに評価されるためではなく、自らの務めのトイレ掃除を全身全霊で果たします。

同僚のタカシがケータイで動画を観ながら、面倒くさそうに片手間に便器を掃除する一方、平山さんは全身全霊でトイレと向き合います。

まるでこの世界にトイレと平山さんしかないぐらいに。

その徹底ぶりは、便座の裏の汚れを鏡でチェックするほどです。

私もタサハラ禅センターで暮らし、ひとりで毎日40近くのトイレを掃除していたことがあります。

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タサハラでは、洗濯も桃太郎のおばあさん気分。川の水で手作業で行います。

参考:電気は太陽光、川の水で洗濯し、温泉は先住民の聖水。スティーブ・ジョブズも修行したアメリカの元祖禅道場「タサハラ禅マウンテンセンター」で暮らしてみた!

それまでは東京で女性誌『anan』の編集者をやっていました。芸能人の方やモデルさん、最新のファッションやコスメに囲まれた生活で、ある意味真逆です。

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ニューメキシコ州のウパヤ禅センターでも、最初の2ヶ月間はトイレ掃除をし続けました。

慣れない経験で、最初は「汚い」とか「嫌だなぁ」と思っていました。

けれども毎日せっせと、何個もトイレをキレイにしていくうちに、不思議と無心になっていきます。

とはいえ平山さんのように素手でゴミを拾うのは最後までダメでしたね。

「気持ちわる!」とか「汚っ!」という心が出てしまうのです。

ゴム手袋をしていても、なにを拭いたのかわからないティッシュや使用済の生理用品を拾うのは、やっぱり抵抗があったなぁ。

仕事を失っても、身近な人を亡くしても、自分の短い歴史がすっからかんになったと思っても、まだ選り好みする心があったんですね。

だから映画を観ているときに、そんな自分の姿を、平山さんとつないでいたほうの男の子の手を無意識に除菌シートで拭いた母親の姿と重ね合わせて、少し胸が苦しくもなったんです。

あぁ、私はどれだけやっても囚われたままだなぁ…。中途半端だなぁ…と。

現代を生きる平山さんと、江戸時代を生きた良寛さんの禅的な幸せ。

そこで改めて思うのが、自分にとっての豊かさはなにかということ。

良寛さんも平山さんも、社会的な地位や物質的な豊かさを選びませんでした。

彼らは自分を知るという豊かさを選んだのです。

それは厳しい道ではありますが、その先にあるのは無常の喜び。
自分は、すでにすべてを持っている。

誰かから愛や承認を求めなくても、しみじみとした幸せを味わえる。

そんな誰かや何かに左右されない真の豊かさ、禅的な幸せです。

その境地は、仕事を失ったり、ものがなかったり、大切な人を亡くしたり、病気になったり、という外側の状況に左右されません。

自分の心から生まれるものなので、自分以外の誰にも脅かされない領域にある幸せなのです。

鎌倉時代の禅僧・道元は、真理を学ぶとは、自分を知ることと言います。

良寛さんは、そんな道元の教えを生きた人でした。
以下が道元の言葉(教え)です。

仏道をならうといふは、自己をならふ也。
自己をならふといふは、自己をわするゝなり。
自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。
万法に証せらるゝといふは、
自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
水野弥穂子校注『正法眼蔵』(岩波文庫)より

ここで仏道(仏の道)とありますが、仏教に限らず、スピリチュアリティでも同じ真理を説くと思います。

だから、私の思うこの道元の言葉の意味は以下です。

真理を学ぶとは、自分を学び知ること。
自分を学び知るとは、自分(我)を忘れること。
自分(我)を忘れるというのは、
宇宙のすべて、それを形づくる法則にサポートされること。
宇宙のすべてと宇宙の法則にサポートされるとは、
自分と他人とを分け隔ててしまう
心の囚われから自由になること。

参考:次元上昇とは? もっとラクに自分の波動(エネルギー)を上げる方法

ゼロ地点に引き下がらないと見えないもの

また道元は、真理に通じるためには、こんなことが必要だともいっています。

貧なるが道に親しきなり。
ー水野弥穂子校注『正法眼蔵』(岩波文庫)より

“貧なること”が真理に親しい。私はこの意味を大きく誤解しました。

その結果、アメリカでは死にかけ、帰国後は重度の顔面麻痺になって緊急入院したんですね。
自業自得です。

参考:マガジンハウス社員からホームレス編集者へ。 アメリカの禅センターで体験したお金を交わさない豊かな暮らし。 交通事故、顔面マヒで入院し気づいた私のお金のブロックを解除する(後編)

そのときに何度も思い返した言葉あります。帰国後に出会った、永平寺で修行されたお坊さんにかけてもらった言葉です。

ある接心で「道元の『貧なるが道に親しきなり。』とは、貧乏じゃないと悟れないという意味ですか?」と、彼に尋ねたんです。
するとこう答えてくださいました。

“貧”という文字は、”貝を分ける”と書きますね。
“貝”とは昔の通貨、つまりお金のことです。
つまり私は、その道元の言葉をこう考えています。
何も持つな、貧乏生活を貫いて
楽しみも喜びもなく一生苦しみに耐えよ、ということではなく、
我欲に走ってしまわず、足るを知って
“貝を分け合える”ような生き方をせよ、ではないかと。

私がゼロ地点近くまで自分を引き下げたとき。まず見えたのは、悲しい自分の限界でした。体力的にも精神的にも。

なぜでしょうか。

振り返って思うのは、その理由は、私が“貧”の意味を取り違えて、“貝を分ける”ではなく“たわけ(田分け)”を行っていたから。

禅的な幸せを行なっていたのではなく、たわけ(馬鹿者)だったんです。

具体的にはどういうことでしょうか。

私はずっと自分ではない人になろうとしていました。

もちろん尊敬する人を目指したり、人に与えることは素晴らしいことです。

けれども私の動機は、本当にやりたいからというよりも、いい人に見られたかったから。
見栄を張りたかっただけなんです。

開き直りにも聞こえますが、良寛さんや平山さんの生き方を素晴らしいと憧れていても、私は良寛さんや平山さんではないのです。

もちろんその人を目標に自分を成長させることは素敵です。

でも、その人そのものにはなれないし、なる必要もないんですね。

私たちがそれぞれ違うことには、大きな意味と役割があります。

いってしまえば、ただ生きているだけで役割があるんです。
そうでなければ、存在していないですから。

けれども、その違いを変えなければと追い詰められてしまうことは、心が今ここにはない。禅的な幸せの真逆です。

私たちにはそれぞれ違った光があって、それを輝かせることはこの世界への貢献にもなります。

自分サイズの禅的な幸せがあって、それでいいのです。

参考:ありのままの自分で本当に幸せになれるの? マガジンハウスからホームレス編集者へ。アメリカ先住民ナバホ族の集落で死にかけて学べた私の幸福学。

人を幸せにする前に、まず自分の幸せに責任を持つ。

つまり、自分が満たされていない状態で、誰かを満たそうとしてもダメなんですね。

たわけ(田分け)を行なっていた私のように、エコだからと蕁麻疹が出るまで無理をしたり、飢えそうになっているのに、食事を振る舞ったりしても結局は続かないのです。

たしかに私は、良寛さんのように冷暖房がない完全菜食の生活をして、唯一の布団を泥棒に与えられるほどの気概に憧れていました。

でもそれを目指していたら、私の場合そうできない自分を責め続けたあげく、体を壊して緊急入院してしまいました💦

さらにいえば私は洋服が好きなんです。新しい洋服を買うのも好き。

けれども、一生かけても着られないほどの300着の服に囲まれていた編集者時代の暮らしも、会社を辞めてから数年の、コートと2着の作務衣を入れて春夏秋冬全8着という数年間の生活も、どちらも私の手に負えませんでした。

極端に走ってみてわかったことは、そのどちらでもない自分の心地よいバランス、超えられない「我」や「世界観」があるんですね。

今の体験を抵抗するような「私という囚われ」を手放せば、自由になれる。
それが真理だと学んでも、最後まで手放せない手綱もある。

それが禅的な幸せを生きるためには、ずっとダメなんだと思っていました。

けれども幸せにはまず、そんな「私」を受け入れてあげることが大切。

ミニマムに生きる平山さんでも、大好きなカセットテープや本を大切に集めていますよね。

そう自分を認めて実行できるようになったのは、いろんなものを無くしたから。自分の限界を知れたからです。

だから、この人生で起きることは、嫌なことやダメなこと、失敗と感じることも含めて、すべて必要なことなんですね。
無駄なことはひとつもない。

できない自分を知ることは、ひとつ自分を明らかにできたということです。
真理を学ぶとは、自分を学び知ること。

自分の認められなかった一面に気づいて、それを認めることも、
自分を学び知るとは、自分(我)を忘れること。

そのうえで、手綱をゆるめられるときがあれば、それをやってみるということなんだと思います。

そうしていった結果、
自分(我)を忘れるというのは、
宇宙のすべて、それを形づくる法則に証明されること。

宇宙のすべてと宇宙の法則に証明されるとは、
自分と他人とを分け隔てる
心の囚われから自由になること。

という境地、純粋な子どものような心に至れるのでしょう。

絶対譲れない自分があることを認めることは、それがダメだ、変えねばと自己否定して抵抗することに比べて、手放し。我を忘れることに近いです。

つまり自分の心地よいバランスを知ることも、この物質世界に生きる醍醐味なのでしょう。

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ウパヤ禅センターでシャワー兼トイレを掃除中に発見した誰かの俳句に笑う。
『生まれるのは風呂。死ぬのも風呂。なんておかしなこと』
平山さんがトイレ掃除中に、誰かと○✖️クイズを楽しんだように、トイレには小さなドラマがある。

物質的には、平山さんや良寛さんの生活はものが少なくて大変そうにも、好きなものだけに囲まれた幸せな生活にもどちらにも見えます。
それはその人の視点によって変わります。

つまり何が幸せなのかは、周りの人が決めることではありません。平山さんや良寛さんというその人自身、そして私たち自身が決めること。

平山さんや良寛さんの生きざまから、心揺さぶられるようなことがあっても、または逆に、なんでもない平坦な1日であっても

今日がその日、という境地が見えます。

つまり、
今日こそがすべての日。
その積み重ねが、パーフェクト・デイズ。

あの日やいつかがパーフェクト・デイではないんですね。

それは、過去の悔いや喪失、将来に起こるかもしれない孤独や病、別れ、またはそうなって欲しいと思う希望や願いに囚われないこと。

囚われないというのは、感じないということではありません。

生きているとそんなたくさんの想いが生まれます。
そのままでいい。
それを感じ切ればいい。

でもそれらに心を囚われて生きるのではなく、今ある奇跡に心を開いて感じること。

感じ切ったら手放して、ふたたび目の前で起きている一瞬の美(奇跡)に心を寄せること。

坐禅と同じです。

そんなふうに一瞬一瞬を生きれば、さっきも今もこれからも、昨日も今日も明日も完全になる。
その積み重ねが、パーフェクト・デイズになる。

映画の終わり、平山さんは今日の一曲に、ニーナ・シモンのカセットテープを選びます。

流れるのは”Feeling Good”。

夜が明けて、新しい一日が始まる、
私は私の人生を生きる
最高の気分

私も学生時代にクラブでよく聴きました。

フロントガラスからは、美しい朝日が差し込みます。

そしてこの曲を聴きながら、泣き笑いする平山さん。

彼の表情は、言葉以上のすべてを語っていました。

この役所広司さんの顔を見るだけでもこの映画を鑑賞する価値があります。

いろんな思いが交錯する毎日に窒息しそうになったら。

今ここにある一瞬、生きている喜びに心をとめて、味わいましょう。

そうすれば、禅的な幸せが訪れ、今日という日がパーフェクト・デイになるから。

今回はまとまりもなく、ずいぶんと長くなってしまいました。

長文を最後までお読みいただいた方、心からありがとうございました。
お心に留まれば、とても嬉しいです。