映画『怪物』あらすじ、私たちに潜む怪物性とは?必要なのは、答えが出ない事態に耐える力

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話題の日本映画『怪物』。カンヌでの公式上映後は、9分半に及ぶスタンディングオベーションだったとか。では怪物とは一体誰で、なんなのでしょうか? 作中の登場人物から透けて見えるのは、私たち全員に潜む怪物性です。そして、その正体不明の怪しさから自由になるために必要なのは、ネガティブ・ケイパビリティ。つまり、答えの出ない事態に耐える力だとも思うのです。

是枝監督『怪物』に見る私たちの怪物性。試されるのは、答えが出ない事態に耐える力

今回お話ししたいのは、話題の映画『怪物』についてです。

監督は、是枝裕和さん。

先日読んだ、日経新聞の彼のインタビュー記事がとても深く、印象的で素晴らしかったんです。

記事:考えぬ人、それが「怪物」 是枝裕和監督、5年ぶりの日本映画 (202359日日経新聞夕刊より)

「怪物だーれだ?」

さて、映画『怪物』は、どんなお話なのでしょうか?

舞台は、湖のある郊外の町。その小学校で起きた些細な事件から、怪物は誰なのか、なんなのかと私たちに問いかける物語です。

登場するのは、息子を愛するシングルマザー、生徒思いの学校教師、そして無邪気な子どもたちなど。

ストーリーの発端となる事件は、よくある子ども同士のケンカにも見えます。

けれども、彼らの食い違う主張が次第に社会やメディアを巻き込み、大事になっていくのです。

私が話しているのは怪物?人間? 私はどっち?

では、映画で描かれる怪物とは誰で、一体なんなのでしょうか。

親なのか、学校教師たちか、または子どもたちなのか、加熱するメディアなのか、それを欲する視聴者なのか。

視点を変えると、それぞれの言い分も見えて、誰が怪物とも言い切れません。

普段は脚本も手がける是枝監督ですが、ぐるぐると錯綜していく『怪物』の脚本を手掛けたのは、坂元裕二さんです。

脚本について是枝監督は、「映画の3分の2が終わっても本当になにが起きているんだか、登場人物もわからないし、観客もわからない」とお話しされています。

その構成に強く惹かれて、監督することを決めたのだそうです。

私たちに潜む怪物性

日経新聞のインタビュー記事では、怪物性とは、ものごとの全体を見ようとしなくなった私たちにあると、示唆されてもいました。

私たちに潜む怪物性とは、なんでしょう?

自分の信じるものだけに囲まれて生きる。

SNSなど、一部だけを見て、叩いて、敵視する。

そんな怪しく、力の大きな、私たちの中にある化け物のことです。

確かに私たちは、同じ世界を共有しているようで、していません。

それぞれの解釈フィルターを通して、別の世界に生きています。

たとえば先日、コーヒーショップでのことです。

目の前の席に親子が座っていました。

すると、急に子どもが泣き出したんです。

それに対して、「どうして急に泣くの?」という母親が怒ります。

たしかに私の目にも、その子が突然大声で泣き出したように見えました。

それを注意する母親に対して、仕事中だった私は、「ありがとう。助かりました」と思いました。

でもよく観察していると、子どもが泣きだす前と泣きやんだ後の母親は、携帯でずっと誰かと電話をしています。仕事の話題ではなさそうです。そして、子どものことを見ていません。

「あぁ、お母さんと一緒に過ごしたいんだな」と、子どもなりの真っ当な理由も透けて見えてきました。

でも、その子の目線で見なければ、母親だけでなく私にも、突然大声で泣き出したように見えたのです。

というように私たちには、それぞれの解釈に基づいた現実があります。

ある人には間違っていても、その人には別のロジックがあったりする。

同じ場所や時間を共有していても、人数分の現実が存在するんですね。

でも余裕がないと、自分の世界しか見えないし、自分が見える世界と違う世界はおかしいということになりがちです。

そして、おかしいという気持ちが我慢できなくなれば、やがて、大きな争いにもつながっていきます。

エコチェーンバー。怪物性を育みやすい現代社会

そして、現代社会は、そんな怪物性を育みやすい構造にもなっています。

私たちがそもそもそれぞれの視座でものを認識する上、インターネットも私たちの視野の限定を加速するからです。

え、ネットでは、たくさんの情報が得られるから、私たちの視点は広がるのでは?とも感じられます。

確かに、YouTubeを見るようになって、TVでは得られない人たちの意見や海外の情報も得られるようになりました。

その一方でエコチェーンバー現象も起きています。

エコチェーンバーとは、SNSなどで自分と似た興味関心をもつユーザーをフォローし、自分が発信してフォローされる結果、自分の意見こそが正解だと錯覚したり、特定の意見や思想に増幅していく現象のことです。

つまり、好きな情報を見るうちに、自分にとってしっくりくる情報ばかりが集まるようになり、無意識に情報のフィルターがかかってしまうんですね。

そこで世界が広がるどころか、狭まっていく恐れもあるんですね。

気をつけなければ、自分とは異なる意見や考えが目に入らなくなってしまう危険性もあります。

これは、自分の日々からも思います。

たとえば、先日インスタで見た韓国コスメを買ったんですね。すると私のインスタには、最新韓国コスメ情報が、YouTubeには、ソウル旅行プランが、どんどん集まってくるんです。

自分で検索したり、探そうとしなくても、AIが取捨選択し、似たような情報が自動的に入ってくるんです。

だから「へー面白いなぁ」「これが人気なんだ」となって、また韓国ファッションだったり、別の最新韓国コスメの情報を見て、買っていたりするんですね。

そしてその商品をSNSで投稿すると、「いいね!」がつく。

すると肯定されたようないい気分になって、これが正しいんだと認識を強めていくという感じで。

このように好きが強まるだけならまだ良いのですが、怖いのは嫌いが加速するネットの匿名バッシング。

それに痛めつけられ、つらい結末を迎える事件もたくさん耳にするようになりました。

そこで、私自身、なにかにハマったときは、ちょっと引いた視点も持つように気をつけています。

人間性を取り戻すために必要な能力

そんな私たちの無意識の怪物性から自由になるために必要なことはなんでしょうか?

映画で問いかける、全体性を見抜くため、つまり人間性を取り戻すために必要な能力とはなんなのでしょうか。

ネガティブ・ケイパビリティとは?

そこで思ったのは、ネガティブ・ケイパビリティ(Negative capability)です。

ネガティブ・ケイパビリティとは、詩人ジョン・キーツが呼んだ、不確実なものや未解決のものを受容する能力のことです。

私がこの言葉を知ったのは、臨床40年の精神家で小説家の帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)さんのネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 から。

能力といえば通常何かが出来ることを指しますが、ネガティブ・ケイパビリティは解決出来ない宙ぶらりんの状態を耐えられる「負の力」のことです。

どうにもならない、答えの出ない事態に耐えられる能力が、自分とは、あいいれない相手と向き合うための粘り強さにも、キーツのような詩人たちが作品を生み出した力にもなるのだと、帚木さんは言います。

それは、わからない状態を受け容れる筋力とも言えるでしょう。

振り返れば、私が大学生の頃は、まだインターネットが今ほど当たり前ではありませんでした。

そこで、わからないことがあれば、図書館に行って調べものをしました。

そして図書館で必要な情報が見つからない場合は、先生や友だちに尋ねて、それでもわからないときは、わからないままにグルグルと考えていました。

それでギリギリまで考えて出した答えが正しくないこともたくさんありました。

今では、写真を撮るだけで、問題の答えを教えてくれるアプリがあるそうですね。しかも無料で!

ネットですぐ答えがわかる今と比べて、昔は、すごく効率が悪かったんです。

でも、その答えを出すプロセスのなかで、人生を変えるような本との出合いがあったり、先生や友だちの言葉にハッとさせられたり。

意味のある遠回りだったんですね。

「わからない」「わからない」と悩む時間がなければ、あの本とも、あの会話とも、出合えなかったんだと思うと、それを逃したかもしれなかった現実を、恐ろしくも感じるんです。

私の遠回り人生:ありのままの自分で本当に幸せになれるの? マガジンハウスからホームレス編集者へ。アメリカ先住民ナバホ族の集落で死にかけて学べた私の幸福学。

また、亡くなった父のことも思います。

彼は、いらない広告の紙でゴミ箱を作るのが得意でした。

「いいですね」と友人に言われて、嬉しくなった父は、「作り方を教えましょう!」と言って、紙をとりにいったんですね。

すると、「大丈夫です。ネットで調べますから」と言われました。

その人は良かれと思って言ったのだと思いますが、今でもそのときの父の寂しそうな姿が目に浮かびます。

では、私は待てるのかというと、そうではない自分がいます。

私自身を振り返れば、母に料理を教わるよりも、ネットでレシピを検索してしまいます。

YouTubeだって1.5倍速にして、なるべく早く答えを得ようと求めていたりもしています。

このように、効率的に答えを出せるようになった私たち。

その一方で、待てる力、受け容れる力、道草で出会えた、自分の範疇を超えた関係性を失ってしまっているのではと、危機感も感じるんです。

不可知なもののなかで寛ぐ力を育くむ

是枝監督が手紙で音楽を依頼したという坂本龍一さん。念願がかない、坂本龍一さんが亡くなる前にこの作品へ2曲、作曲されました。最後の映画音楽です。

映画を観た坂本さんは、とても面白かった

そして、『答えがはっきりしないのがいい』と、手紙でおっしゃったそうです。

参考:もう瞑想が難しくない。 基本の呼吸瞑想のポイントはただひとつです。

私たちが生きるのはスピードが速く、多様性の時代です。

答えが早く出るけれども、それぞれの違いや価値観を受け容れることも求められる時代。

そこで互いに共生し、全体を共有するために育くむために大切なのは、不可知なもののなかで寛ぐ力、ネガティブ・ケイパビリティなのでは。

そう再認識させてくれた、強く惹き込まれたインタビュー記事でした。

映画の公開がとても楽しみです。