「受動意識仮説」から「意識の次元拡張」まで。意識とは何か、心はコントロールできるのか?

「受動意識仮説」から「意識の次元拡張」まで。心はコントロールできるの?

私たちが見たり触れたりしてリアルと信じるものは、現実世界を形づくる情報の0.00005%に過ぎないとも言われています。つまり、99.99995%の現実が意識にのぼらないということです。なぜか。処理能力にキャパシティがある脳に必要だと選択されなかったためです。そもそも人の意識とは無意識がやったことを後で把握するための装置にすぎないとしたのが、前野隆司教授の「受動意識仮説」です。ではケン・ウィルバーの意識の次元拡張は自分でコントロールして達せるのか。その鍵となるマインドフルネスから本当に心や行動は意思で制御できないのかを考察します。

意識とは何か?

『脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説』、前野隆司博士は
1. 人や物や出来事に注意を向ける働き(awareness)
2. 自分のことを「私」と認識できる自己意識(self-consciousness)
意識を、(1)と(2)を合わせたものとします。

それは、ある物や出来事に注意を向けて、「熱い!」とか「いい香りだなぁ」と五感だったり、「悲しい」「腹が立つ」という気持ちだったりを感じたり、「昨日はカレーを食べたな」という記憶を思い出していたりいる、「私」を自覚している状態です。

私たちの意識にのぼるのは、現実の0.00005%にすぎない。

ところが脳は毎秒4億ビットもの情報を処理しますが、そのうち意識にのぼるのは2000ビットに限られ、99.99995%の現実がふるい落とされているとか。つまり私たちが見たり触れたりしてリアリティーだと信じるものは、現実世界の0.00005%というごく一部の情報に過ぎないというのです(自動的に夢がかなっていく ブレイン・プログラミングより)。

心理学者フロイトは、人の心を水に浮かんだ氷山にたとえ、ほとんどが無意識下に隠れていて、人の行動は水面下に潜む無自覚で抑圧された衝動に支配されると考えました。



無意識とはどんな状態か?

では、無意識の行動にはどんなものがあるでしょうか。

焦ると早口になる、嘘をつくと眉毛に手を触れるなど気づかずやってしまうのも無意識行動です。そういった何気ない言動に無自覚の衝動が隠れているとしたのが、先のフロイトです。

ほかにも、ピアノの鍵盤に指が触れただけで「猫ふんじゃった」が弾けたり、ペダルを順に右足、左足と追わなくても自転車に乗れたりしますよね。いつも使っている携帯だったら、「右手の親指を90度にしてホームボタンを押して…」など一つひとつ操作に集中しなくてもアプリを起動させられます。これらも、無意識にできる行動、と言えるでしょう。何度も学習したことで、体(指や足や方向感覚)が覚えたことが運動記憶として定着したためです。

無意識下で作動する最たる体の機能の、呼吸や心拍、体温調節など生命を維持するホメオスタシス(恒常性維持機能)もあります。

意識はどこにあるの?

では意識がどこにあるのかということですが、まだはっきりとわかっていません。ひとつには、脳にあるという考え方があります。

「我思う、ゆえに我あり」のデカルトは、意識は松果体にあると言いました。当時人間にしかないと思われていたからです(実際は、ニワトリや魚にもあります。光を感じる「第3の眼」として機能)。これはスピリチュアル世界の人たちもよく言いますよね。

そういえば、カリフォルニア州バークレー市にあったパラマハンサ・ヨガナンダ(※)の自己実現会(Self-Realization Order)というセンターで、クリヤヨガを教えてもらったことがあります。そのときにも、眉間にあるキリスト意識に集中せよといわれました。松果体は、眉間をグーっと脳の真ん中まで貫いた先にあります。

(※)彼のあるヨギの自叙伝はスティーブ・ジョブズが唯一iPadに入れていた電子書籍として有名。

デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳というタイトルからも、それに真っ向と対するのが、有名な脳科学者アントニオ・ダマシオ博士です。彼は、脳のなかでも古い脳である脳幹や帯状回が意識に関係するのではといいます。

帯状回は、前部帯状回(ACC)は自己制御力などの感情がともなう行動と、後部帯状回は、空間認知や記憶との関わりがあります。前部帯状回は、マインドフルネス瞑想で活性化するとも言われています()。

脳幹は、呼吸や心拍、体温調節などと深く関わります。つまり無意識の行動(不随意機能)を指令します。

万物の理論としてのインテグラル理論を開発したケン・ウィルバーは、私たちにはエネルギー次元によって3つの体を持つといいます。体(肉体/グロス)レベルの現れ、心(感情・想念/サトル)レベルの現れ、魂(静謐・沈黙(観察者)/コーザル)レベルの現れが同時存在し、「私」を形づくります。

ここで脳(か肉体のどこか)に意識があるとすれば、より高い次元のもの(魂)を物質次元にある意識が操作するのか?という疑問が生じます。エネルギーとしての「私」を見るなら、むしろ脳は、意識のアンテナのようなものではと考える方がしっくりきます。

意識が人間の行動を決めるのか?

野口整体の創始者であり、日本の東洋医学を代表する野口晴哉氏は、整体入門 のなかで、人間の行動は意識でやっているように見えるが、実はそうではないといいます。

行動の後ろにはいつも欲求があり、野口氏は「要求」と呼びますが、それは意識的な欲求・大脳的な欲求ではなく、体の中にあるもっと本能的な力を指します。つまり、種族保存の欲求、成長の欲求、自由行動の欲求という、体に染み付いた無意識の命の欲求が行動を定めるとか。

受動意識仮説では、意識は無意識の行動を把握する装置にすぎない。

前野隆司教授の受動意識仮説では、人の意識は心でコントロールするものではなく、無意識がやったことを後で把握するための装置にすぎないとします。

それをサポートするのが、カリフォルニア大学サンフランシスコ校 神経生理学教室のリベット博士の実験です。人が「指を動かそう!」と意識する(思う)よりも、0.35秒早く指を動かすための準備が脳で始められていたというのです。つまり無意識下で指を動かす脳内の活動がスタートされていたという研究結果でした。

さらに前野教授は、「大腸菌は自分だろうか?」「食べたものは消化されて吸収される瞬間に自分になるのだろうか?」という「自分」とそれ以外の境界線のあいまいさを指摘します。そこでどこまで「私が意識」すると言えるのか()。



どこまでが自分か? 意識を拡張させるマインドフルネス。

マインドフルネスや瞑想は、無意識にやっている行動(ホメオスタシスに関わる呼吸や運動記憶された歩行など)を意識して行うことで、気づいたり、選択したりする心を取り戻そうとするものです。無意識下のものを意識下に落とす習慣をつけることで、例えばカッとして衝動的に反応してしまう前に、自滅的な行動と自覚することで避けられるという選択の自由が得られます。

参考:5分歩くだけで不安や怒りが消える。自分の部屋でできる歩く瞑想の行い方

参考:動画で解説! 不安、ざわざわがリラックスする、5分間の心落ち着き瞑想。

体の感覚の気づきも深まるので、瞑想の熟達者だと、大腸菌も私と意識できて体との深い友好関係を築けるのかもしれません。実際に彼らはアンチエイジングに関わると注目される、テロメアという染色体の端を守るキャップのようなものが長いともいわれています。

この状態は、意識を拡張させるといえるでしょう。

さらに気づきを深めたうえで、「私」という枠を家族まで、友達まで、コミュニティまで、同じ考え方を持つ仲間まで、敵も含めて、命を持つもの持たないものすべて、宇宙の根元と自我領域を超えていく。このアイデンティティをトランスパーソナルな意識へと拡張させていく発達過程をモデル化したのが、ケン・ウィルバーです。

インテグラル理論を体感する 統合的成長のためのマインドフルネス論』でウイルバーは、意識のレベルに合わせて、次元の成長段階をレッド、アンバー、オレンジ、グリーン、ターコイズ(ティール)、インディゴなど、色別でわかりやすく説明します。さらに段階別の“見えている現実”、“正しいと思うゴール”、“陥りがちなコミュニケーション”を詳しく述べます。

例えば、レッドの場合は、自己中心的。オレンジは、世界中心的で、普遍的な枠組みに基づいた論理、倫理観の世界です。特に、スピリチュアル実践を深めると陥りがちな、グリーンの段階についての説明が秀逸です。グリーンの段階では、すべての存在の神聖性を理解できる一方、“平等こそが正しい”という倫理観がゆえに視野が狭まって、“平等は正しくない”とする人を排他してしまう傾向にある。

オレンジを超えるグリーンの世界観では、生態系の持続可能性、社会的な正義、富野公平な分配、非暴力、女性の権利の問題などに注目しだして、それはとても素晴らしいことであるけれど、その正当性にとらわれてしまうことで、無自覚に差別的になってしまうところがあるというのです。

本書では、グリーンの視点を超えたターコイズ(ティール)やインディゴなどのより高次の視点で世界をとらえるとどうなるのか。より統合的、で超統合的(インディゴ)で、衝突の中に共鳴できるものを見出す視点。それぞれの独自の長所を評価し、共感できるというより高い、ハイヤーセルフの視点について解き明かします。

参考:この本でわかる! ハイヤーセルフ、ソースエネルギーをトランスパーソナル心理学で説明

参考:ハイヤーセルフと繋がる方法とは? 問題を解決する、自分を超えた答えのダウンロード法

無意識と意識を一致させる可能性はある。

ここまでの結論として、意識は、「私」という認識を超えたところに中枢があると思います。それは、「私」というアイデンティティを超えた「私」の本質でもあると思います。と同時に、「私」という小さな枠の命の欲求を満たすための子会社的な意識も体や心という次元に並行存在していると思います。マインドフルネスで気づきを深めて、利他と自利が一致するような全一的(ワンネス)な行動をすればするほど、無意識と意識が一致していき、自ずと心や行動がコントロールされた状態になっていくのではないかと考えています。