二元性を超えるとは? 死を受け容れる人の心の変容5段階から”エゴの死”について考える。

二元性を超えるというのは、なにか特別なスピリチュアル・リーダーや、グルだけが達するすごいことのように見えます。しかしそれはむしろ、誰もが実践できるシンプルで奥深いものではないでしょうか。心理学者カール・ユングは、人間の本性は、すべて光だけで成り立っているのではなく、たくさんの影からも成り立つと語ります。この光も影も自分に存在することを容認することは、エゴ(分離に基づく自己意識)の二元性を超えた在り方と言えるでしょう。今回は、”エゴの死”について精神科医エリザベス・キュブラー・ロスの死の受容五段階に当てはめて考察します。

二元性を超えるとは? 個性化への道

二元性とは、私とあなた、光と影、幸せと不幸、プラスとマイナスなど世界を二極分化する世界です。ここに私たちは感情を加えて、二極を肯定的な面と否定的な面からなると世界(現実)を捉えます。

二元性を超えるというのは、世界を大いなる一(すべてであり唯一である。ワンネスとも呼ばれる)だと見ることです。

それは通常のものの捉え方とは違うので、悟りを開いた人(=世界を大いなる一と見る人)は、高徳と見られるよりも常識から外れた変わり者とか狂っていると見られることが多かったようです。彼らは自分の心の赴くままに行動し、周りの人の反応にこだわらないからです。言い換えれば、自分の中の光にも影にも○も×もつけないということ。

心理学者カール・ユングは、人間の本性は光だけで成り立っているのではなく、たくさんの影からも成り立っていると言います。その両極でなる自分の本性を認めたときに、無意識の自己が意識に統合され、本来のその人自身になっていく真の自己への道、個性化(individuation)を経ると言いました(『自我と無意識 』より)

参考:嫌いな自分を赦せば、愛が叶う。投影を外し、人間関係のモヤモヤを一掃する心理学。

死を受け容れる人の心の変容5段階は自我を超えるプロセスと同じ

精神科医エリザベス・キュブラー・ロスは、死を受け容れる人の心の変容が5段階で進むと分析しました。これは、私たちが自我(分離に基づく自己意識)を超えて自分自身の本質を知り、受け容れていくプロセスにも通じます。



1. 否定(denial)

事実を受け止められず、「そんなはずはない」「嘘だ」と否定すること。あるいは無感覚になる。

2. 怒り(anger)

なぜ自分にこんなことが起きたのかと運命を呪い、現実や周囲に対して怒りを持つこと。

3. 取引(bargaining)

神仏にすがったり、善行を行ったりすることで食い止めようとすること。

4. 抑うつ(depression)

3の取引に失敗し、諦めたり悲観し、虚しさや抑うつ、絶望を感じること。

5. 受容(acceptance)

自然なものとして現実を受け容れること。これまでの価値観や視野とは異なる次元があることを理解し、心の平穏を得る。

参考:プルシャとプラクリティ

ダメな自分、良い自分と、○も✖️もつけない。

私はアメリカで家を突然失ったとき、学生に戻って年齢コンプレックスに苦しんだとき、ナバホ族の居留地で無力な自分を受け入れられなかったとき、離婚した夫が突然死したとき、重度の顔面マヒを患ったとき、親の病気など…。それらの現実では、見たくない自分の一面を何度となく直視せざるを得ないことになりました。そして、いつもこの5段階を経て、最終的に受容で心の変容を得て、真の自己へ近づいていくのだと理解しました。

参考:風の時代へ。冬至の心の毒だし、バシャールの現実創造で何が起こる? 突然顔面マヒに、ラムゼイハント症で緊急入院した話。

今でも心理的なエッジに追い込まれると、繰り返し否定から始まり、この5段階を踏みます。人生は玉ねぎの皮をむくようなものでクリアしたと思えば、また深い思いが現れるからです。けれども、「今の自分は怒りのタイミングなんだな」などちょっと客観的になれると、体験することの意味が変わり、その後の判断と行動も変わります。

また、私はアメリカの禅センターでしばらく暮らしていたことがあります。何時間も行う坐禅は自分にとってはラクな時間で、それよりも全く違う文化や考え方の人たちと24時間働いて生活することで生じる「どうして?」「思い通りにしたい」というコントロール欲や怒りや悲しみに苦しみました。

参考:ズルくても弱くても大丈夫。心の影(シャドー)を認めて、嫌な人がいない世界へ。

さらに内観すれば、そういった自分の一面を「ダメだ」と罰してしまうこと。その否定が救済を求めてさらに修行にムチうつという取引に転じ、達することができない”完璧な自己像”を求め続けて苦しかったのです。

自分の内側に進んでいくことはしんどいものです。外側の風潮や流行りに乗っていいとしたくなります。そこを踏ん張って「なにが嫌いで、なにが好き」「本当はどういう生活が幸せなのか」と自分を掘り下げていく。そこでは光だけでなく影も現れます。それを「そうなんだねー」と○も✖️もつけずに向き合っていくことで、自分のソース(源)と繋がることができます。そうなると、もう迷いがなくなります。

自己成長のために、自分の良い面に○をつけてねぎらい、悪い面に✖️をつけて鼓舞することは大切でしょう。けれども、大前提として深い部分で「どんな自分でも受け容れる」という自己信頼が力強い土台となり、ちょっとやそっとでは揺るがない根となります。



影の自分を認めたとき、不思議な魔法が働く。

また、あるときプレジデントや老師の人間らしさや哀しみに触れたときのことです。思い煩う影の部分を持つのは自分だけではない。それをあらわにする彼らに対して弱さ以上に力強さを感じ、さらには彼らとの心の距離が近づいたように思いました。

これは自分との心理的な距離においても同じです。

人間は光と影から成り立っています。二元性を超えるというのは、その二元、つまりコントラストからできているのだと見渡せる視点を持つということです。言い換えればそれは自分の中にある光と影の存在を許容すること。

わたしが今このマキワリ日記をやっているのも、過去の自分が感じた悲しみが源流になっているように思います。おこがましい話かもしれませんが、その悲しみをなるべくなら他の人に感じさせたくないというエネルギーが伝えることにつながっています。

「これは良い」「これは悪い」とすぐに決めてしまわず、「人間万事塞翁が馬」(じんかんばんじさいおうがうま)」ということわざもありますが、「これは良いかもしれないし、悪いかもしれない」と、なるべく中立に受け取ります。

そんなふうに白や黒、光や影がある自分を自然なものとして受け容れること。

参考:自然なあなたが一番美しい。ドス黒い感情やダメな視点にも価値がある! 不安、怒りを「書いて」陽転させる方法

心理学者カール・ロジャーズは、「不安は今の自分を受け容れられないことで始まる」と言っています。これまでの価値観や視野とは異なる次元があると理解すること。

そんなふうに肩の力をラクにしたとき、同じくロジャーズがいう、

興味深い逆説ですが、ありのままの自分を受け容れたとき、変わることができるのです。

The curious paradox is that when I accept myself just as I am, then I can change.

不思議な魔法の力が働くのです。