「目には目を、歯には歯を」という罰則のような怖いイメージが先行するカルマ(業)。サンスクリット語で行為や創造を意味し、そもそもの意味には良いも悪いもありません。出したエネルギーが返ってくるというのは、キリスト教や仏教を始めとする宗教だけでなく、物理学でも言われる法則です。カルマは、私たちがもっと自然に、ラクに、パワフルになるための気づきのチャンス。カルマの3つの現れ方、カルマを活かして解消する方法を紐解きます。
目次
宗教、物理学が説く因果応報の教え。
「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります」
ガラテヤの信徒への手紙 6章7節
キリスト教の教えです。
仏教にも「縁起」といって、「原因に縁って結果が起きる」という法則があります。「因果応報」は、すべてが自らの行いで起きた結果や報いとする教えです。
行いというのは、思ったこと、考えたこと、行動したことです。
物理学の「反作用」では、AがBをすれば、等しく反対の力が作用してBがAをする。量子力学では、観測されたものの結果は、観測者の意識によって変わるとも考えられています。
カルマとは、気づきを得るための「行為」や「創造」の現れ。
カルマ(業)は、「行為」や「創造」を意味するサンスクリット語です。ヒンドゥー教や仏教における輪廻転生という考えでは、ある人生が次の人生へと魂が持ち越す、特定の傾向のことを指します。
古いウパニシャッド(サンスクリット語で書かれた仏教以前の奥義書)では、人が死ぬとその人の体に宿っていたアートマン(個体の生命原理)が体から抜け出し、人生で得た学習、行った行為の予習(カルマ)がくっついていくと言われています。つまりカルマの傾向性を帯びた魂が肉体を離れて、転生されるということです。
カルマは、原因をつくりだすものであり、その原因があって、必ず結果が生まれます。
そこでカルマから「目には目を、歯には歯を」のことわざを連想すると、“悪いことをすると罰せられる”イメージが浮かびますが、もともとの意味には「良い」「悪い」というニュアンスはありません。
カルマは、報復的なものではありません。魂にくっついた個人的なストーリーのようなものです。
自分自身がそのストーリーそのものだと強く思い込むことで、カルマが持つ傾向性が繰り返されます。思念は業(カルマ)をつくるからです。
つまりカルマとは、ニュートラルな気づきを得るための機会ともいえ、ストーリーからの束縛を受けなくなるとその学びが終わります。つまりカルマが解消されます。そこで向き合い方次第で、カルマは、私たちがもっと自然に、ラクに、パワフルになるためのチャンスにもなりえます。
人生における気づきとは、ストーリーにのめり混んで一体化せず、完全に客観的な視点から現状を俯瞰することで、何をどう変えたいのか、どうすればより良い選択になるのかを明確に把握することです。
私たちは絶えず循環する、進化に向かうエネルギーの集合体。
では、そもそも気づいていないこととはなんでしょう?
天才物理学者アインシュタインが発表したE=mc2(エネルギー=質量に光の速度の二乗をかけたもの)という数式では、質量とエネルギーは入れ替え可能、つまり物質とエネルギーが同じと説明されます。
それは、この世界に存在するものは、すべて物質であると同時にエネルギーということ。
ジョー・ディスペンザ博士は、私たちとこの世界の99.99999%がエネルギーで、0.00001%が物質からなると言います。つまり物質としてはほとんど存在しておらず、世間にあるどの物質もむしろエネルギー場であり、情報の周波数のパターンです。
私たちもまた、情報の周波数のイチパターンです。
振動するエネルギーである物質は、周波数(次元)によってそれぞれの現れがあります。それをスピリチュアル世界では“波動の違い”とか、物理学の世界では“素粒子(フォトンと呼ばれる構成物の最小単位)の回転速度の違い”と言ったりします。
つまり、私たちはそれぞれにカルマという一つの傾向性(周波数)を帯びたエネルギー体であるということ。個別の傾向性を持ちながら、それはすべてを創造する大いなるエネルギーの源の一つの現れでもあります。
私たちが個別の周波数を持つに至ったのは、神または大いなるすべてである万物の法則が「分裂する」概念に興味を抱き、冒険できるような領域を創造したためとも言われます。光と闇、善と悪、男と女、新と旧といった対立しているように見えているものも、すべて大いなるすべての一部。大海の一滴の水、同じものの別の状態です。
つまり私たちの起源は、すべてを創造する大いなるもの。諸行無常という言葉にもあるように、絶えず状態を変えながら循環し、進化に向かうとてもパワフルなエネルギー体なんです。個別の現れとして存在しながら、同時にエネルギーの共有体、源エネルギーの現れでもあるということです。
そこで真の哲学は、私たちは個別の存在でありながら、同時に全体の一部であると説いています。仏教で、私たちは”そもそも仏心を持つ”と言われるのもこのことからです。
仏教へと宗教をまたいでも、マインドフルネスを世界に広めたティク・ナット・ハン禅師もまた、インタービーイング(interbeing)という言葉で、すべての生命は依存しあって切っても切り離せない関係にあり、すべてが全体として大切な役割を演じていることを説いています。
参考:パンデミックの時代に心の種に水をやろう。幸せのための集合的無意識の活かし方。
カルマは、真の起源に向かう機会。怖いものではない。
つまり、そのことを忘れているのに気づいていませんよ、ということです。
「真の起源を忘れていますよ(=自由意志を持った、とてもパワフルな存在ですよ)」「あなたはストーリーではありませんよ」ということを気づかせるために、カルマという出来事で目の前に現れているのです。
『アルケミスト 夢を旅した少年』で、王様である老人が少年に言う
人は人生のある時点で、自分に起こってくることをコントロールできなくなり、宿命によって人生を支配されてしまうということだ。それが世界最大のうそじゃよ。
です。
↑世界22カ国で読まれているベストセラー。おとぎ話を読みながら、人生の知恵、大いなる源の法則を自然にまなべる。夢を追求している時は、心は決して傷つかない。それは、追求の一瞬一瞬が神との出会いであり、永遠との出会いだからだ。夢を旅した少年サンチャゴの物語。
”世界最大のうそ”に気づくために、すべての行為に対して大いなる源がそれに応じたものを返すというのがカルマの法則です。それは罰ではなく、魂を研磨するためのもの。
怖いものではないんです。だから、カルマとか業という言葉であなたに不安や恐怖を抱かせる人がいたら、一歩引いて見てください。驚愕法という洗脳の一種にかけられているのかもしれません。
カルマとは、その人の魂を高め、良い方向に変えていく(=真の起源に戻る)可能性がもっとも高い出来事なんです。ニュートラルな存在です。
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試練に見える物事も、こだわりを捨てて開かれた意識を持ったとき、自分自身と世界を深い思いやりと調和の心で見られるようになります。
同じ勘違いをし続けると(ストーリーに深くのめり続けると)、それに気づくまで形を変えて同じような気分になる状況やカルマで結びついた関係性が現れます。
参考:病気が贈ってくれた、ホリスティックの真の意味とそのギフトについて
人生における3種類のカルマの現れ方。
ベストセラー作家テッド・アンドリューズは、人生におけるカルマの現れ方には以下の3つの形があると著書『自分の前世! がわかる本』で語ります。
1. ブーメラン型:誰かを傷つければ自分も傷つけられ、誰かを助ければ自分も助けられると言うもの。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の世界観。
2. 生物型:誰かを身体的に虐待した場合―たとえば失明させた場合、次の生で目の見えない子どもに生まれる可能性がある。
3. 象徴カルマ型:人の話に耳を貸さず一生を送ると、次の生で耳に障害が現れる可能性がある。逆に、他の人の良い面を探すようにしていれば、次の生では直観や認識力が高まる可能性がある。
ただし、カルマの原則において、何かやったことに対して同じことが自分に起きるとは限らないとアンドリューズ氏は補足します。
極端な話でいえば、現世や過去生で怒りや暴力によって殺人を犯したとしても、現世で殺されるとは限りません。虐待されている人が、必ずしも過去に誰かを虐待していたと言い切れないのはこのためです。
怒りや暴力の衝動に対して魂の成長を促す、その人にとって最も適した状況が現れるというのです。
同じ殺人でも、動機が怒りや暴力ではなく不注意だったとしたら、その動機に合わせた、次に正しい選択ができる機会が現れるのだとか。
殺人や虐待というと当然否定的なものなので、情け容赦のない罰則のように見えます。
また、生まれたばかりの赤ちゃんが虐待されるのは、前世で悪いことをしたからか?!と納得もできません。
カルマには個人レベルだけではなく、集団や種族・集合意識レベルのものもあります。ある個人にそれが強く発現する場合もあり、その現れ方には不確定要素もあります。
一つの学びでも、さまざまなバリエーションや状況があって、必ずしもやった行為が同じようにカルマとして返ってくるのではありません。
その行為がまとうエネルギー、考え方に裏打ちされた感じ方、をより自然な魂の方向性に変容させるような状況が現れるというのです。
またそれぞれの魂によって成長段階が違い、学びの内容も異なります。ハード設定の人もいれば、ソフト設定の人もいます。結果の現れ方も違います。
ただユダヤ人であるという理由だけでアウシュヴィッツ収容所に入れられる時代に生まれることも、何世代先の時代に大富豪の二世として誕生する場合もあります。
不条理にも見えますが、分離から統合に向かうというのがすべてのカルマが魂を導く共通する方向性です。
魂とは、大いなる源の現れ。異なるものに見えて、元をたどれば同じものからやってきた一つの現れなのです。最終的には同じ性質のものになっていく(統合する)ために、魂を研磨させるような出来事、カルマが生じます。
それは、純粋無垢な意識の状態(=自由意志を持った、とてもパワフルな存在)に向かうための出来事です。
そんな自分に必要な学びを与え、成長を促すために最適な親と環境を、すべての赤ちゃんは自分で選んでくると、『前世を記憶する日本の子どもたち』の著者で産婦人科医の池川明先生は語っていっています。
カルマを帳消しにするためには?
カルマに裏打ちされた人生のあれこれは、すべて統合(魂の起源)に向かうものだと理解すれば、ゴールに達することが重要なのではなく、そこに至る過程を楽しむことが大切だというのがわかります。
ゲームの結果ではなく、いかにゲームをプレイするかということです。
多くのグルと呼ばれる人たちが、Doing(行動)やHaving(結果)よりもBeing(存在)としてのパワーを強調するのがこのためです。
それは、すべてのストーリーを泰然として観察するような存在です。
なにをやっているか、なにを持っているか以上に、どんなエネルギーをまとっているかが重要とは、多くの聖者が説いた悟りです。つまり悟ろうとしないことで得られる悟り。万物は何らかの物質というより何もない空間(エネルギー)で、私たちの本質が求めるのは体験。それは自分の本質を感じさせる魂の方向性(真の起源)だからです。
哲学、ストーリー、信念などに固執せず、ただハートを開いてゆったりします。目の前の現実がどうであれ、今の心地よさを選ぶ、ありがたさを感じることが、既に統合された状態(真の起源)になります。
緊張しているときに、深呼吸して肩の力を緩めると、少し落ち着くのはこのためです。リラックスして緩んでいるときには、波動が上がり、本来の状態(真の起源)に戻っているからです。
参考:動画で解説! 不安、ざわざわがリラックスする、5分間の心落ち着き瞑想。
カルマの役割は、“どんなときでも、あなたは自由意志を持った、とてもパワフルな存在ですよ”と気づかせてくれることです。つまり、カルマはその知恵を得ることで帳消しになります。怖いものではないのです。
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