引き寄せの法則でいう周波数って? 今ある場所でエネルギーを高める方法とは

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引き寄せの法則で語られる周波数や波動。それらは一体なんなのでしょうか。そして願望実現などに必要とされる、エネルギーを上げる方法とは、聖山にこもったりと特別なことをしなければならないのでしょうか。そんなことはありません。今の生活を変えずに、今ある場所でできることについて、お話したいと思います。

周波数や波動とはなに?

引き寄せや波動、現実創造の基本となる量子力学の考え。そこではすべてのものには固有の周波数があること。そしてそれぞれは周波数によって引き合っているといいます。

気が合う人のことを”波長が合う”といいますよね。この表現にあらわれるように、昔の人たちも、そんな目に見えないけれど私たちがまとっているエネルギーのようなものを感じとっていたのでしょう。おそらく今よりもずっと何気なく、身近な形で。

では周波数とはなにかというと。1秒間に繰り返される波の数のことです。単位はラジオ放送と同じ、ヘルツです。

量子力学では、この世界にあるものすべてを一番細かくした最小単位を素粒子といいます。

素粒子は、粒子という物質としての性質と、波のような性質をあわせもっています。

つまり、あなたも私も、猫も犬も、石も木も、お気に入りの服も、セールで買って履かず仕舞いになっているあの靴もそうだということ。

物質としての性質と、固有の周波数をもつ波としての性質をもっています。

そして目に見えない感情や思考、現象としての出来事や状況にも周波数があります。

関連し合うもの同士が引き合っている。

周波数には幅があります。

そこで現実には、一見自分と異なるように思えるものも現れますが、まったく違うものは現象として出現できません。

出来事も人も同じ。

これが引き寄せや願望実現でいわれるところの共鳴現象です。つまり、お互いに関連し合うもの同士が、共同創造しているのです。

つまり、今出会う人たちは、袖振り合うも多生の縁。偶然起きているのではありません。

これは仏教の縁起にも少し似ている考え方だともいえます。

というのも縁起で説かれることとは、私たちは決して孤立して存在することはできず、関係性のなかで今ここに生じたひとつの現れだということ。そして、それは絶えず移り変わっています。

個として存在しながら、個だけでは存在し得ないのです。

刹那的にも聞こえるかもしれませんが、これは美しいことでもあります。

たとえば、私はすべてから切り離されたように感じて、孤独を感じることもあります。自分には家族もいないし、親が亡くなったら、ひとりぼっちになるなぁと。

私は、私以外のすべてからできている。

けれども、縁起の観点でいえば、これは誤りです。私は私以外のあらゆるものからできています。

たとえば蛇口をひねってキレイな水が出るのは、そうなるためにたくさんの人たちが関わっています。水道管の手入れをしたり、水質管理したり、水道料金を計算して請求してくださったり、それをまた運営費に回したりと、私以外のたくさんの方々がしてくださっています。

そしてなによりも、水という支えがあるからこそ、生きることができています。水という自分以外のものを体にとり入れることで、私が存在できています。

だからどうやったって、たとえたったひとりで山にこもったり、無人島で生きるにしても、この物質世界に在る以上、私だけが個別で存在することは不可能なのです。

意識しなくても、常に、呼吸するだけで、私は私以外のものを取り込み、私以外のなにかとのつながりのなかで生かされています。

衝突や人間関係の苦しみはなぜ起きるのか。

しかし、関わりによって衝突が起きたり、傷ついたり傷つけられることもあります。

どう考えたって自分とは関係がないように見え、完全に犠牲者になってしまったと思える状況が起きることもあるでしょう。不協和音を生じる人や出来事が現れることもあります。

なぜそのような不共鳴現象が起きるのでしょうか。

周波数の高低の幅について。

その理由は、人にはそれぞれに周波数の幅があるためです。

たとえばスターや聖者など、たくさんの人に対して大きな影響力を与える人は、周波数(波動)の幅が広くなります。

思うに覚悟というか、器というか、ハラのすわり方が波動の高さだけでなく、波動の幅を強く太くするように感じます。

周波数の幅が広くなると、経験する物事の光と影のコントラストも強くなります。

熱狂的なファンやサポーターが現れると同時に、バッシングを受けたり、命を狙われる人がいたりといったようにです。動くエネルギーが大きくなるんですね。

イエス・キリストの処刑やジョン・レノンの暗殺などはその例です。

はたからみれば、その人生は、大変波瀾万丈なものに見えます。

けれども、その人生を生きている人とそれを見ている私とはそもそも周波数が違うのです。

当人ではないので、彼らが自身の人生をどう捉えているかは、正確に押しはかることはできません。

次元(周波数)が違うと、同じ状況を体験していても、物事の受け取りかたも異なり、受け取れる情報(体験)も変わるからです。

私たちはある意味、同じ舞台を共有しながら、それぞれに違う世界を経験しているのです。

不快なことが起きたら、自分の周波数を見直す。

では、現実問題として、私たちが目の前になにか嫌なことが起きたと感じたとき。そこで大切なのは、外側を変えようとする前に、自分の周波数を見直すことです。

外側のなにかはものすごくリアルに迫ってきて、私たちの心を捕らえるけど、最終的な決断を下す裁判官は、いつでも私たちの内側にあります。

その裁判官とは、感じかた、捉えかた、受け取りかたです。

パワーの周波数とつながる。

エイブラハムの感情の22段階や、ホーキンズ博士のパワーか、フォースかでは、悟りや平和、喜びや愛は、高い周波数を持つ感じ方(感情や意識レベル)とされています。

それらは恐れや不安など、欠乏感を感じさせるものではなく、「すでにある」と満たされた気持ちになるものです。

ところで日本語だと、パワーもフォースも”力”です。でも英語のフォース(Force)は、外側から力を加えるイメージです。対してパワー(Power)は、力そのもののというイメージ。

つまりこの本は、ガムシャラに力を加えて外側を変えようとするというより、そもそもある根源的な力とつながることで得られる無限大の力について。そして、それがどういう意識状態を指すのかを具体的に説明しています。

とても面白い本ですよ。

参考:自分の周波数を知る方法。周波数を高めて幸せになるために重要なポイント

とはいえ、悟りや平和、喜びや愛というと、なんだか高尚で遠い感じもします。マザーテレサとかイエスキリストとかの聖人だけが至れる境地のような…。

参考:現実とは投影。私たちの波動が「現実の経験」を創造している。

そこで、その状態をもっと日常生活に落とし込み、身近な言葉で表現したらどんな状態を指すのでしょうか。

さらにいえば、「無い」のではなく、「ある」という意識状態とは一体なにか。

ひとつにそれは、今当たり前にできていることを、そう思おうと無理せずに、しみじみと「ありがたいなぁ…」「与えられているなぁ」「受け取っているなぁ」と感じ入る心ではないでしょうか。

たとえば、カフェラテを飲んで「あぁ、おいしいなぁ…」「幸せだなぁ…」「こんなラテアート作ってもらっちゃった♡」と味わっているときのような。

嫌なことで、そもそもあったことに気づく。

それに気づかせてくれる天才のひとつに病気があげられます。

病気は嫌なものです。天才というよりも天災のようです。でも、当たり前のことのありがたさについて、改めて気づかせてくれる存在でもあります。

たとえば、私はラムゼイハント症候群になってはじめて、まばたきできることに感謝できるようになりました。重度の顔面マヒになって左側の顔がまったく動かなくなったから。

鏡を見るのも恐ろしくて、しばらく人に会うのも不安でした。

それまでまばたきができることも当たり前だと思っていて、感謝どころかやっていることやできていることのすごさに気づきもしませんでした。

顔面マヒでまばたきができなくなると、存在全部が「痛み」になってしまうぐらい、目に激痛が走るんです。そして目は乾燥し、真っ赤になります。

だから目のなかに軟膏のようなものを塗ります。すると視界がぼやけます。不快です。しかししばらくするとまた乾き、何度も塗り続けることになります。不便なんですね。

そして眼帯していてもガーゼや風に目が触れて痛いので、医療用テープのようなものでまぶたを貼ります。当然化粧もできません。する気すら起きません。

そして口が動かないので、パピプペポが発音できなかったり、蕎麦が食べられなかったり。

ずっとこのままかもしれないと担当医に言われたときは、正直いって絶望でした。

顔が動かないだけで、こんなに辛いのか…。なってみるまでわかりませんでした。

しかしもちろん当然よかったこともあります。

顔が動かない、話しづらい、目が見えない、人と会いづらい…となると、必然的に意識が外側から内側の体験にシフトします。

その結果、自分が書いてきたこと(心と体のつながり。内側の体験が外側の世界を形づくっていること)が「なるほど。こういうことか…」と、腑に落とせたんです。

ナバホ族の限界集落で少し暮らした後も、山を降りてからきれいな水でシャワーを浴びられたときに号泣したことがあります。

水があるということ自体がすごいし、しかも泥が混じっていないし、お湯まで出る…と。

シャワーの後は、シンクに砂の山ができました。たった1週間強、限界集落にいただけなのに。

お皿を洗いながら、そんなことをふと思い出すことがあります。

水道からたっぷり水が出ることが本当にありがたいなぁと思うんです。そして、ときどき「こんなに水を使っていいのかなぁ」と罪悪感を抱いてしまうときもあります。

それに気づいたら、罪悪感から感謝を味わう方向にシフトしています。

清潔なトイレで用をたせることも、すごく嬉しいなぁと思います。

これらはすべて当たり前のことでした。でも場所や立場や状況や時代が違えば、当たり前じゃないんですね。ぜんぶ。

それらが与えられていることが前提で、なにかがないと苛立ったり、悲しんだり、焦ったりしていました。

でも今は、清潔な水は命に直結しているので、大前提として生かされているんだな。いろんなことに焦りにくくなりました。

おそらく昔の私から考えれば、今の私はヤバイと思う状況にあるんだと思いますが、大丈夫なんですね!

もちろん高みや成長を臨むことは大切でしょう。野心を持ったりも大切な上へと向かうエネルギーです。それによってサービスや製品の質が向上することもあります。

でも、私個人としては、昔には感じられなかったことにありがたさと豊かさを感じられるようになったことが、会社を辞めて色々なことを経験したことの最大の贈り物だと思っています。

今ある場所で満たされる実感が持てないと、ずっとトレッドミルを漕ぎつづけるような人生になるから。それって、持続可能じゃないですよね。

だから、心理学の知識が身についたとか、禅修行で瞑想の習慣がついたということよりもギフトだったんです。もちろんそれらがサポートしてくれて、こう捉えられるようになったということもあります。

でもそれらだけでは腑に落ちなかったように思います。とくに顔面マヒとナバホ族の集落での体験、認知症の女性との切なくも温かい暮らしが、私の大事なことやそうではないことのパラダイムシフトを起こしたように感じています。

ナバホ族の集落での体験:ありのままの自分で本当に幸せになれるの? マガジンハウスからホームレス編集者へ。アメリカ先住民ナバホ族の集落で死にかけて学べた私の幸福学。

まだ「すごいことだなぁ」「ありがたいなぁ」と気づけていないことがたくさんあると思います。起きる出来事はすべて、それに気づいたり、あるいは「嫌だ」とわかり、今後は自分で望んで選ぶ必要はないものを教えてくれたりするものやことだと感じます。

顔面マヒの体験:アメリカの禅センターで体験したお金を交わさない豊かな暮らし。 交通事故、顔面マヒで入院し気づいた私のお金のブロックを解除する

そこで、嫌な出来事や不快な状況が現れたとしても、そんなに怖がる必要はありません(もちろんその状況の真っ只中では、私自身、ものすごく怖がっているし、悲しんでいるし、焦っているし、大絶望を感じていたりしています。それでいいと思っています)。

最終的には、当たり前に贈られていた愛や感謝に気づくことができます。

でも、苦しい体験を望んでしたくないですよね。

映画や本、ニュースが助けてくれること。

そこで映画を観たり、本を読むことも役立ちます。自分以外の人たちに起きていることを知ることも役立ちます。

無関心が関心になったとき、自分に守りたいものがあるように、他の人にもそれがあると気づいて、守ろうと自分ごとに思えるのではないかとも感じます。

私があの人で、あの人が私。

そんなふうに自分という枠が拡大されたとき、より愛や悟り、平和や喜びの周波数に近づきます。

参考:あなたに最適な男性性エネルギーと女性性エネルギーのバランスを調整する方法

同じ行動でも意識状態によって波動が違う。

たとえば、人に快く与えたり、贈ったりすることでその人の周波数が高まるのは、「そもそも私にはある(だから贈る)」という意識状態になっているからです。

同じことをしていても、そうではなく、「奪われる」「もったいない」と思っておこなうと、欠乏の意識状態になっています。

一方で、山野弘樹さんの独学の思考法には、読書(知識だけ)を学びとすることへの警鐘を鳴らす、ショーペン・ハウワーのこんな言葉がありました。

読書は、他人にものを考えてもらうことである。(中略)ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。

ビクッとさせられる言葉ですね。

そこで、感じとったものを自分の生活のなかで自分サイズで追体験することで、より深く波動共鳴できるのではと思います。

たとえば、実際にその人と関わることがなくても、深く想いを傾けてみる。届かないかもしれないけど、祈りを捧げてみる。

救急車が通り過ぎるとき、車のなかにある人が「大丈夫ですように」と思いながら、サイレンが聞こえなくなるまで胸の鼓動を感じてみる。

今夜は眠れない。でも、銃声を耳にして不安に過ごす夜ではない。この穏やかな空白の時間は、自分を癒すときに変えてみよう。目を閉じて鼓動を感じてみよう。

そんなふうに。

自分なりに感じて行動にして体験してみます。私たちが生きる(現れる)次元は、私たちはエネルギーであるとはいっても、体験がベースになった物理世界だから。

すると私たちが目の前の状況から受け取るものが変わります。その結果、自ずと私たちの波動も変わります(目には見えないけれど)。

成長や拡大、豊かさというのは、最先端にアップデートして、どんどんなにか新しいものを獲得していくもののように思われます。

それも楽しいことです。

でも、そんな大きなリズムに乗り続けつづけることに、もしもちょっと疲れていたり、いっぱいだったり、「(もっと頑張れない)私はダメだ」と思うなら。ダンスが踊れそうにないなら。

今あるもの、与えられているものをじっくり味わうことで充実するものもあります。

横に広げたり、上に積み上げたりするのとは違い、井戸を掘るように今ある体験の深さを感じとります。

これは自戒を込めてもお話しています。というのも、私は長いあいだずっと、ここではない場所、これではない何かを求めていたから。例えば、

あの人ではなくこの人。

大阪ではなく東京。

日本ではなくアメリカ。

女性誌の編集者ではなく心理学者。

研究室ではなく禅センター。

資本主義社会ではなくギフトエコノミー。

といったように。

認知症の女性との暮らし:居候生活と禅修行で始まったひとりベーシックインカム制度。4年間のわたしの“家賃ゼロ”という生存計画について

“無い”から”ある”へ。

そして今思うのは、どちらでもいいし、どちらでなくてもいい。体験を決めるものはそれら外側にある枠組みというよりも、今ある場所や状況、目の前の人からなにをどう味わうかということ。

もちろん、新しいことをしたり、新しい場所へ行ったり、新しい人に会ったりすることはとても素敵なことです。大切なことだと思います。

でも、今の体験を味わい直す(味わいきる)ことでも、私たちの波動は変わり、フレッシュな驚きと喜びに満ちた体験ができるんですね。

なんでそれにもっと早く気づけなかったんだろうと思います…。

人一倍物わかりが悪くて、頑固な私。バカバカバカ!と悔やんだり、恥ずかしいなと思うこともたくさんしてきました。

でも、両極を体験することではじめて腑に落とさせてもらう、という筋書きを私の心が描いていただんだと思います。

とはいえ今でもまだまだわかっていないことがたくさんです。たくさん失敗しつつ涙しつつ、肩の力を抜いて笑いつつです。

最後に老子の『EXPLORE WITHIN』という詩をみなさんにシェアしたいと思います(原文英語を邦訳しました)。

これを今読んでくださったあなたのお心に届けば嬉しいです。

【内なる探求】

外国に行くことなく、私はこの世界を知っている

星を眺めることなく、私は宇宙自然の普遍的法則に気づいている

放浪するほど、知ることはない

賢者は旅せず探求し、

目にせず見極め、

努めずに終えて、

家を離れず目的地に着く

TAO TE CHINGより

【おすすめの本】

TAO TE CHING(老子道徳経)』
最初にこの本を知ったのは、バークレーでのケトナー博士の授業ででした。彼が細いけれど、柔らかくしなる柳の木の強さについてお話しされたのです。

漢文が英文になった方が、詩的でわかりやすくて素敵なんだ。そう、驚いたことを今でも覚えています。

その後、エサレンや禅センターで暮らしていたときも、この本は図書館にあったり、話題にのぼったり。

薄い本なのでアメリカの後半のアドレスホッパー時代もスーツケースに忍ばせて、パッと開いて目にした詩を読んでいました。

帰国するときに人にあげてしまったので、Amazonで買えたときは嬉しかったです。

今、日本で読むと、また違う感じで心に響きます。そのときどきの自分によって奏でるものが変わる、味わい深い本です。