一生に一度は読むべき本。小川糸さん『とわの庭』からクリシュナムルティの愛

book and flower garden

心に残る良本と出合いました。

小川糸さんの『とわの庭』です。

物語の主人公は、盲目の女の子とわ。

大好きな母に去られた彼女は、

壮絶な孤独の闇に突き落とされます。

やがて生きる力を身につけ、とわは再生します。

そこで私に芽生えた問いは、

責任を伴わない愛は愛なのか。

そして

クリシュナムルティが説く「愛とは?」を思ったんです。

一生に一度は読むべき本
小川糸さん『とわの庭』と
クリシュナムルティの愛

book towanoniwa

『とわの庭』のあらすじ

盲目の女の子とわは、大好きな母と二人暮らし。

母が言葉を、庭の植物は四季を、

鳥の合唱団が朝の訪れを教えてくれた。

でもある日、母がいなくなり……

壮絶な孤独の闇を抜け、

とわは自分の人生を歩き出す。

おいしいご飯、たくさんの本、

盲導犬ジョイの温もり、一夏の恋-。

読了後は、いろんな気持ちで

胸がいっぱいになる長編

『とわの庭』小川糸著

小川糸さんの小説の魅力

小川糸さんの小説にハマっています。

最初に読んだ作品は、『ライオンのおやつ』。

母が勧めてくれました。

彼女の小説は、

その後読んだ『食堂かたつむり』もそうだけど

丁寧な料理をおいしく味わうこと

不器用でも精一杯生きる美しさ

生と死は
つながりあっていること

が描かれていて

読了後は
滋養あるスープを飲んだような

ほかほかと幸せな気持ちになれるんです。

そこが私にとっての
小川糸さんの作品の魅力です。

また

彼女の本を読むと

アメリカの禅センターで
修行しながら暮らしていた頃のことを
思い出します。

当時私は坐禅しながら
典座(てんぞ:料理長の僧侶)と
20-100人弱の
ご飯を毎日作り続けていました。

cooking at upaya zen center

ありがたく頂くけれども

なにごとにも執着するな

ですが
やっぱり修行中の楽しみは、

おいしいご飯です

そこで
私にとって
アメリカでの数少ない成功体験は
唯一の日本人として
和食を作って喜ばれたこと

onigiri

単なるおにぎりでも感動された

振り返れば

アメリカで一番身についたことは

英語力でも心理学の知識でもなく

料理する習慣と
食事を大事にする暮らし

だと心から思います。

参考:映画『パーフェクト・デイズ』と禅的な幸せ―今の瞬間を生きると今日が輝く

さて
小川糸さんの小説に話を戻すと

私の心がわしづかみにされた本が
『とわの庭』

book towanoniwa and garden

小川糸さんの作品の中では

比較的マイナーで

暗いところもあるので

珍しいと思われるかもしれません。

けれども

目が見えない少女

とわが出会う痛みと優しさ

そのすべてが、

私の心を静かに揺らしました

そこで

考えさせられたのは「愛」とはなにか

目が見えない「とわ」から、

インド生まれの哲学者
J.クリシュナムルティが説く
「愛」を見たのです。

愛という名の支配、突然の見捨て

『とわの庭』で描かれる愛は
決して美しいものばかりではありません。

物語は、
盲目のとわに言葉を教えて
世界との橋渡し役となる母さんと
とわとの

童話のように美しい
二人暮らしから始まります。

そこでのとわは
目が見えなくても
母さんの愛に包まれ

母さんがとわのために
庭に植えた
植物の香りで四季を知り

鳥の合唱団たちは
とわに
朝の訪れを教えてくれます。

けれどもやがて
母さんがお金のために
仕事に出かけるようになり

やがて彼女は去ってしまいます。

突然
とわの前から姿を消してしまうのです…

なぜ??と混乱した私は、
その後一気に読んでしまいました。

この部分は物語のなかで辛い部分でした。

けれども小川糸さんが描くので
どこか温かさもあるというか

救いがある文体で
読み進めることができました。

責任を伴わない愛は、愛なのか

やがて作品では、
母さんが去った秘密が明かされます。

そしてまた

なぜ母さんが
とわに世界を見せず
彼女を隔絶した世界に閉じ込めたのか

母さんは何を守りたかったのか

そこはぜひ読んでみてください。

素敵な物語だから。

そこで私が深く考えさせられたのは

この母娘に、愛があったのか

母さんのとわへの感情は
なんだったのか

ということ

母さんの愛は、
ただ自分を守るための
自己愛だったのではないか

では愛とはなんだろう?

愛という言葉はとても大きくて、

優しさも、執着も、犠牲も、
そして逃げ出すことでさえ

「愛」の名のもとに
語られることがあります。

世間知らずだった私は
アメリカで何度か死にかけたんです。

その経験から思ったのは

責任があるかどうかで
「愛が本物かどうか」が
試されるのではないかと感じたんですね。

私のことを
最後の最後まで見捨てず
救ってくれた
親や友人たちの存在…。

それは
これまで体験したことのない思いを
私に抱かせるものでした。

小川糸さんの母との複雑な関係

そして小川糸さんの描く人物たちは、
善悪で割り切れません。

たとえば、『とわの庭』の母さんは
ある一面では無責任だったけど、
ある一面では確かに
とわを愛していたのかもしれない。

そう思わせる部分もあるんですね。

つまり
「愛していたのに、責任を果たせなかった母」
という存在も描かれている。

そこでふと
食堂かたつむり』の
主人公と母との関係性も思いました。

また
ライオンのおやつ』も主人公は、
幼い頃に両親と死別しています。

小川糸さんご自身、
長年母親との関係性に葛藤を抱えていたと言います。

幼い頃、
大好きだったインコが亡くなり
土葬して欲しいと母に頼んで
学校から帰宅するとゴミ箱に捨ててあって
深くショックを受けたエピソードも…

大人になった小川糸さんは
お母さまとの縁を切ります。

けれども
やがてがんになった
お母さまを看送ったことで
小川糸さんの心がほどけていき、
長年の葛藤からも解放されたそう。

この心の変化を経たことが
『とわの庭』という作品にも
つながっているように思います。

これらはすべて

私がアメリカの大学で
心理学を学んだときに何度も

「We, humans are complex」
と言われたことも思います。

学問として
いろんなセオリーや実験結果を学んでも
決して
人のことをわかったような気になるな、

人はとても複雑だから

ということです。

というのも人間は、

善と悪、利己心と利他心、
高尚と低俗、賢さと愚かさなど…

さまざまな要素が複合した存在です

たとえば
ユダヤ人裁判にかけられた
アイヒマンのように

ホロコーストで
ユダヤ人収容者を大量虐殺した
血も涙もない冷酷な存在でありながら

結婚記念日には
忘れず妻に花束を買うという
愛妻家であったように

私自身も含め人は皆

ある場面ではすごく冷酷になったり
ある場面は思いやり深かったり

一人の人物を

善人だけ悪人だけと言い切れず
複雑なんですね

捨てられた惨めさよりも

愛を見送る者としての強さ

物語では、
とわは母親から捨てられた存在です。

けれども、
不思議なのですが

その後の

一夏の恋に終わった
リヒトとの関係性においてもですが

とわからは

見捨てられた惨めさが
私には
あまり感じられないのです。

flower

もちろん
想像を絶するような
悲惨な経験をするのですが…

むしろ
とわからは

捨てられた惨めさよりも
愛を見送るものとしての強さ
感じられます。

愛や人間の複雑性に触れながら
私が思うのは、
とわの現実を受け入れる強さです。

なぜか…

とわは、
愛されたこと、捨てられたこと、
目が見えないこと、
すべての体験をそのまま受け入れ、
自分の力に変えていきます。

けれどもその力は、

「なんとか見捨てた母さんを
見返してやろう」とか
「復讐してやろう」とか
「なんとか幸せになってやる」とか

そういう力んだものではないんですね。

うまく説明できないのですが

とわの
既知のものを捨てて
未知のものに
素直に心を開く強さ…

という感じでしょうか。

愛は、ありのままを観ることで姿を現す

そこで思ったのが
J. クリシャナムルティが説く愛についてです。

クリシャナムルティは

今この瞬間に
完全に注意を向けた観察の中で
世界は真の姿となる

そこで愛もまた
初めて姿を現すと言います

その観察では、
物事を良い悪いと区別せず
自分の考えやエゴを入れて判断せず
ありのまま受け入れます。

つまり

「自分が」「自分を」という思い、

「自分のもの」という
所有欲や嫉妬、支配を
手放したときに

初めて愛が出現するというのです

それが

現実をありのまま観ること

あるように見て

良い悪いと判断せず
ありのまま体験すること

それは

G.N.ゴエンカ式の
ヴィパッサナー瞑想で

そして
アメリカの禅センターでの暮らしで
学んだ道元の教えにも通じます。

けれども
自分という枠を手放すことは
とても怖いですよね

難しいことです

なぜなら
自分が設定してきた枠は、
過去の積み重ねでできていて
自分を守るものでもあったから

そして
「私の」「あなたの」
「正しい」「間違っている」
「良い」「悪い」と区別することで、

見知らぬ領域に
踏み込まなくても良くて
安全です

けれども

クリシュナムルティも
ブッダの教えを説く
ゴエンカ氏も道元も

真理は
「私」と「あなた」という
区別性が消えたところに現れる

今この瞬間に
完全に注意を向けた観察の中で

世界は真の姿となり
愛もまた初めて姿を現すと

所有も嫉妬も支配も
手放した先にある関係性が愛…

愛は未知のものなので
既知のものを捨てることによって
それに近づかなければならない

未知のものは
既知のものがたくさん詰め込まれた精神によって
発見することはできません

非難を加えたりせず
それを純粋に見つめたとき
精神は自由になります

そのとき私たちは
愛がどういうものであるかということが
わかるようになるでしょう

私たちの愛は、所有
所有から嫉妬が生まれます

私が彼または彼女を失うと
空虚感を覚えて途方にくれます

そこで私は所有を合法化してしまう…

彼または彼女を独占する
このようにその人間を独占し所有することで
嫉妬や恐怖、無数の闘争が出てきます

このような所有は、愛ではありません

また

愛は感情ではありません

愛は感傷的になったり
感情に走ったりすることは愛ではないのです

なぜなら感傷や感情は
単なる感覚に過ぎないからです

この感情は思考のプロセスであり
思考は、愛ではありません

自我の終焉──絶対自由への道
J. クリシュナムルティ著|根木宏・山口圭三郎訳

新訳はこちら

愛とは
思考や感情から生まれない

そして愛は
時間の制限を受けない

過去の記憶や自分の欲望を通さず
ただその人や世界を観ることで

愛が初めて姿を表す。

この実践をつまびらかにした自伝が
ヴィクトール・E・フランクルの
夜と霧だと思います。

受け容れる力=世界への愛

とわの庭で描かれる愛を思うとき

母さんの自己中心的な愛は
無責任な裏切り行為で

そのせいで
とわが孤独の淵に投げ込まれたんだと
とても嫌な気持ちになったんです。

けれども
最終的にはとわは、
私の理解の枠を
超えたところに生きていると痛感しました。

彼女は
愛されたこと、捨てられたこと、
目が見えないこと、
すべての体験をそのまま受け入れ、
自分の力に変えていきます。

その後に経験する
一夏の恋についても…

目が見えないとわのほうが

世界を見たいように見ている私よりも
世界をより明瞭に見ているのでは…

そんなふうに
愛について深く考えさせてくれた
物語でした。