スピリチュアル世界や仏教で説かれる私たちはひとつという概念、ワンネスや縁起。私たちは全員、切っても切れないつながりのなかで生きているといわれます。けれども連日の報道を目にすれば、怨恨による殺人、戦争、そしてパンデミックの隔離政策―。そうでなくても気づけば他人との比較で一喜一憂。心を分断する現実が横行します。ではどうすれば心安らかに、喜びに満ちたつながりを感じられるのか。お話ししたいと思います。
目次
つらい気持ちを穏やかに、つながりを感じて喜びに変える方法。
私たちが苦しい、つらいと思うとき、同時に孤独感も抱いています。
この世界で自分こそが、自分ひとりが苦しい思いをしている。そんな気持ちになるのです。
けれどもスピリチュアル世界ではワンネスという言葉、仏教でも縁起という概念で、私たちは切っても切れないつながりのなかで成立すると説かれます。
参考:悟りや覚醒はどんな状態? 本当に幸せ? 普段の生活で開く悟りとは。
ワンネスとは?
ワンネス(Oneness)とは、ひとつであること。
たとえば男と女という性別。世界をふたつのカテゴリーにわけて捉えるものの見方です。
一方で、私たち人間は卵子と精子が結合してできたものです。
つまり男性という要素と女性という要素の両方からなっています。
二つの要素がひとつに結合した後に再び、分裂を繰り返します。
その後、たくさんの細胞からなるひとつの私という全体を形づくっています。
別々のものが一つのものを作っているのです。しかしひとつであると同時に、別々でもあるのですね。
全体を形づくりながら、個別のアイデンティティも備えています。
それは海がたくさんの一滴の水からできながら、海全体としてあるようなものです。
一滴の水のなかに全体があり、全体のなかに一滴の水があります。
一滴の水は全体であり、全体は一滴の水なのです。
部分そのものに全体があるのです。
ハン禅師に学んだインタービーイング。
これは仏教的な考え方でもあります。
私にマインドフルネスを教えてくださったティク・ナット・ハン禅師。
離婚後、アンアン編集者だった私が彼のリトリートに思い切って参加したのは、ある動画がきっかけでした。
そこに登場するのは自己嫌悪でいっぱいの女性と、ティク・ナット・ハン禅師。
彼女はこのようなことを言います。
「私はほかの人はとても素晴らしいとわかっています。愛すべき存在であるというのもわかります。でも自分のことはどうしてもそう思えない…。存在に値する人物だとは、どうやっても思えないんです…」
そこでティク・ナット・ハン禅師はこんな風に答えます。
「あなたはあなた以外のすべてからできています。そこで、あなたがあなた自身を嫌うとき、あなた以外のすべてをも嫌うことになります。つまり、目の前の私のことも嫌うことになります。それはあなたの求めることでしょうか?」
彼女は大きく首を振り、涙を流し、最後は笑顔になったのでした。
私たちは私たち以外のすべてから出来ている。
本を読むときは、開いたページに雲を見る。
雲が雨となり、雨が木を育み、その木が切られて紙が作られ、製本された紙が本になるから。
私たちは、私たち全体と影響しあって存在している。
私たちは、相互存在している。
彼はそれをインタービーイング(Inter-being)という言葉で呼びました。
私たちはヒューマンビーイング(人間)であり、人と人、人と人以外の間に在るインタービーイングでもあるのです。
その動画を観たとき、ほとんど衝動的に、「この人に会わなければいけない」と直感しました。そして韓国で催された彼のリトリートに、なにも知らないまま参加したのです。
それがすべての始まりです。
そこで、私が「ワンネスや縁起とは?」を思うとき、マイケルジャクソンの歌『Heal the World』が心に浮かびます。
歌詞もメロディーも心を優しく包んでくれる楽曲です。
私たちが争ったり、孤独を感じたり。腹が立ったり、嫉妬したり敗北感を抱いたり。
心が恐れや不安に囚われているとき、あの人は私とは違う。そう強く思います。
分離感です。
一方で、相思相愛。恋愛の真っただなかのとき。
あるいは誰かとの深い対話が叶ったとき。温かい心の交流を感じたとき。
別個の存在だという枠組みが溶けたように、相手とのつながりを深く感じます。
家でホッとひと息ついているとき、夢中で歌を歌っていたり、作業しているとき。
そこでは自分自身とのつながりを体験します。
心と体が別個であるという枠組みが溶けたように、心身魂が一体になります。
そんなふうに自分自身とのつながりが感じられると、自動的に、相手とのつながりも感じられます。
ティク・ナット・ハン禅師はこんなたとえ話もしてくださいました。
右手と左手の不毛なケンカ。
うろ覚えで恐縮ですが、右手と左手のケンカのたとえ話です。
右手と左手が争い、傷つけ合っています。
でも右手も左手も私の一部。私の一部であり、私という全体を形作っています。
右手が傷つくと、左手も痛いのです。なぜなら右手も左手も私だからです。
つまりお互いに自分ではない別個の相手だと見えて、実は自分のことを傷つけているのです。
そのような美しいたとえ話だったと思います。
私はあなたで、あなたは私。
つまり私がそれを大事にするのと同じように、相手も、喜びを求め、恐れや不安を避けたいとする。
そのことを自分ごととして、頭だけではなく、骨の髄まで深い部分で通じている状態。それがワンネスであり、マインドフルネスが深まった状態です。
参考:マインドフルネスで怒りをおさめ、心と体の栄養を深く味わう生き方とは?
すべては自分を大切にすることから始まる。
そして、それは深いセルフコンパッション、つまり自分を大事にすることから始まります。
ワンネスの状態にあれば、私たちは互いを鼓舞したり、切磋琢磨することこそあっても、互いに争ったり、意図的に足を引っ張り合うことはありません。
なぜか。
それは、あなたは私であり、私はあなただと深い部分でわかっているからです。
右手を傷つけることは、左手を傷つけることにもなるのです。
だから、苦しいときは、まず自分を大事にしてあげてください。
自分を大事にするとは、今感じているものを否定しないこと。
悲しいとか、寂しいとか、苦しいとか、ひどいとか、休みたいとか…。あなたがそう思っている心をありのまま感じて寄り添うこと。
等身大の自分を許すこと。大事にすること。
自分に優しくすること。
セルフコンパッションです。
そしてその先として、「私」と「あの人」という対立から自由になること。
具体的には、私を傷つけるあの人にも、私とは別世界に生きるように見えるあの人にも、痛みがあること。そして喜びや安心を求める心があること。
深い部分に横たわる共通性があるのです。
自分だけが見捨てられ、ひとりぼっちなのではない。深い部分にあるつながりを感じとります。
たとえば私がひとりで入院したときのことです。
病気のつらさとひとりぼっちの心細さが骨身に染みました。見た目が変わるという恐怖心もありました。
また痛みは、意識をそこ(痛みを感じる自分)に集中させます。
しかし、それと同時に、この経験によって人とのつながりをより感じられるようになったんです。
病気をしている人、また私は顔面麻痺を経験してより深い意味で知った、誰にも会いたくないという気持ちになってしまうとき。昔よりもずっと根深い実感として、そんな状態の人の思いが自分ごととして感じられるようになりました。
また、フリーランスになったことでわかったこともたくさんあります。
一番大きかったのは、会社員時代とは違う報酬の未払いや突然の契約終了という経験。それがどれほど大変で心細いことなのか。それがわかったんです。
これまでたくさんの個人事業主やフリーランスの方々とお仕事や交流させていただきました。でも本当の意味で、彼らの覚悟や切迫感をわかっていなかったように思います。目一杯残業しているから働いていると思っていた私は、随分と甘かったと思います。
だから思うに、痛みや苦しみを感じる経験も、そうではない喜びや愛の体験もすべて、最終的には深いつながりを育むためのものなんだなと。たとえ分断を経由したとしても、最終的には、そもそもが個であると同時にワンネスである、という真理を腑に落とすプロセスなんだと思います。
なにとのつながりかというと、他人と、というよりも、第一に自分との愛ある関係性です。
孤独や苦しみをも自分ごととして経験することで、今までは違うと思っていたり、「あなたは違う」と思われていたような人とのあいだの共通点に注目できるようになるんです。
自分との愛ある関係とは?
たとえば入院前の私は、ほとんど無収入でした。
そこでケチケチモードで通信量がかかる動画を観ないようにしていました。節約のためだけでなく、本を読む時間が必要だったから、ただの無理ではなく、必要性からそうだったというのもあります。
ところが入院して数日たち、同室の方のせん妄や叫び声、いびき。投与される薬の影響もあって、ほとんど眠れない…。
じゃあ本を読もうとしても、文字を見るとめまいがするので、できません。
追い詰められて心の余裕がなくなっていき、「お願いだから静かにしてほしい」と腹も立ちます。
そこで「えーい、もう自分を甘やかそう」とイヤフォンをして一旦現実と自分を隔離させ、気分が上がる韓国ドラマのラブコメをみまくりました。
すると少しずつ気分が上がっていったのです。余裕がなかった心のなかに少し空間が生まれだすと、同室の方たちが抱える悲しみや痛みも少しずつ捉えられるようになったんです。
ホンネの自分を認める。許す。甘やかすことって大事なんだな。
そう実感しました。
もちろん、人間的な器が大きくて、最初から、いつでも、どんな状況でも、自分を愛することよりも先んじて相手のことが考えられる方もいらっしゃるでしょう。そしてそれが犠牲的ではなく、喜びとして。
素晴らしいことです。
私はずっとそういう人になりたいと思って、そうじゃない自分のことを「ダメだ」「ケチだ」「人間が小さい」と責め続けてきました。
参考:ありのままの自分で本当に幸せになれるの? マガジンハウスからホームレス編集者へ。アメリカ先住民ナバホ族の集落で死にかけて学べた私の幸福学。
でも、今はこう思います。
そうできない不十分で不安定な自分を罰したり、批判するのではなく、愛を贈り続けること。これはとても難しいことであり、同じぐらい素晴らしいことなのです。
等身大の自分を明らめることはとても勇気がいることだから。
Courage(勇気)のもともとの意味は、ラテン語で「本当のことを話す」なんだそうです。
自分に傾けた愛だけ、人を愛せる。
そして、自分に傾けた愛と同じ分だけ、相手を愛することができます。
振り返れば「いい人に見られたい」と背伸びし続けていたときの私は、愛されたかっただけで、誰のことも愛していなかったと思います。
今もそうじゃないといいなと思いますが、たとえそうだったとしても、そんな自分を認めるところから始めたいと思っています。
その先として、深い部分のつながりを感じとることができるから。物事をありのまま捉えるマインドフルネスの実践を助けにしながら。
参考:自分本位は自分勝手じゃない。ありのまま人間らしくいるための5つの方法。
あなたに優しく、あなたを大事にすること。あなたの心の平和と幸せは、他の人の平和と幸せにもつながっています。
マイケル・ジャクソンが歌うように、
少しのスペースでいいんです。より良い場所を作るために。
あなたのために、私のために、世界のすべての人たちのために。
心に優しさや温かさや安心や喜びの種を植えてください。
病気や戦争、災害、さまざまな事情で、たくさんの人たちが亡くなっています。
命を大切に思うなら、どうかまず、あなたの命の時間を大切にしてください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
どうか良い時間をお過ごしください。