37歳で再スタートって、遅いですか?#1

人生がスムーズだったころ、新卒で出版社に。

私は大学を卒業して14年半、マガジンハウスという出版社に勤めていました。最初は大阪支社の広告営業からスタートし、3年ぐらい経って東京の広告局メディアマーケティング部に異動。Ginzaやku:nel、Hanakoの編集長や広告代理店の方たちと企画を考えて広告セールスを担当しました。その後はHanako編集部、最後はanan編集部で編集者として5年間働きました。忙しかったけど、充実した日々でした。

そして離婚。

結婚も一度しました。でも震災後にお互い別の道を歩むことになり、34歳で離婚しました。子どもは居ません。犬は彼が、猫は私が引き取りました。猫は彼がコンビニにサイダーを買いに行った帰りに、そのままついてきて家に住み着いたサバトラです。マスカットみたいな緑色の目をしています。

初めて東京で暮らしたのは、恵比寿です。マガジンハウスの社員らしく気張って、大阪弁で暮らしました。二人で生活したのは中目黒です。

そこから引っ越してふたたび一人暮らしを送ったのは都立大学。特急も急行も停まらない各駅停車の駅でした。引越しを終えたその足で会社に向かいました。ホームで銀座行きの電車を待ちながら、目の前を通り過ぎる急行列車の風を感じて、妙にホッとしたことを今でも覚えています。

もう、みんなと同じペースで走らなくてもいいんだ。コースから外れてもいいんだと。おそらくこのときから、周りのスピードや、いくつになって結婚して子どもを産んで、貯金はこれぐらいでみたいな幸せのあり方や、洋服ダンスにぎゅうぎゅう詰めの値札がついたままのブランド服に、疲れていたのだと思います。

その後の恋も破れる。

離婚をしてから恋もしました。17歳年上の同じく離婚歴のある男性でした。すらっと背が高くて3か国語を自由に操る、柔らかいクリーム色の洋服を好んでよく着る人でした。けれども最終的にはお別れすることになりました。

自分の幸せがわからない。

大学生のころに「これが幸せだ」と思い描いたことがありました。それはシンプルに以下です。

  1. バリバリ働く
  2. 通勤は、オシャレな好きな服で
  3. 憧れのソフィアコッポラに取材
  4. 仕事に理解ある夫と結婚
  5. 金銭的に自由な状態

ところがすべてを達成したときの私は、不眠症と偏頭痛に悩まされていました。二人でいるときの寂しさは、ひとりの孤独よりもキツいことも知りました。

目標はカリフォルニア大バークレー校で幸福心理学。

そんなとき、当時はanan編集者でしたが、私の興味があった瞑想や心理学についての企画も積極的にやらせてくれる編集長に恵まれました。この編集長は広告局に異動になってしまいましたが、私の恩人です。そして『happy』という映画のプロデューサーの清水ハン栄治さんに取材させていただくことになります。清水さんからなにげなく「カリフォルニア大学バークレー校のケトナー博士がScience of Happinessというポジティブ心理学の無料インターネット講座を始めるよ」と後日教えてもらいます。当時はポジティブ心理学という言葉はまだ日本でほとんど知られていませんでしたが、それは精神病の人をマイナスからゼロの状態にする心理学ではなく、普通の人の幸福度を高めるための心理学ということでした。

Science of Happiness

バークレー校がどんな学校なのかもよく知りませんでしたが(そもそも英語自体がわからなかったので)サイトのデザイン、コンテンツの選び方が良いことは勘でわかりました。自分の人生にも行き詰まりを感じていました。




「これを無料で行うとは一体どういう仕組みなんだろう?」と興味もありました。認定修了書を受けると有料になること。このプログラムが入っているedXというオンライン授業コースシステムは当時ほとんど無料で、今は有料プログラムが中心になっています。今では、そこへの呼び水になるような仕組みだったのだと知りました。受講側と運営側の両方がWinWinになる仕組みづくりをしているところにも学ばされました。

なんとなくピンときた私は、東京の部屋を解約。全財産をスーツケース2個にしました。処分する前の洋服は300着ありました。ビザが取れるかどうかわからない状態でしたが、胸の内を打ち明けていた同僚が編集長や他の編集部員に話してしまっていたことですっかり噂が広まってしまっていました。そこで退職届を出したあとに無事にビザが発行されたときは、本当にホッとしました。

中年無職になって、母を泣かす。

サンフランシスコの家賃事情もその後泣くことになる高い授業料のことも知らず、「しばらくしたら部屋でも借りて猫の草(かや)を引き取ったらいい」と考え(甘い!)、親に頼み込みます。「6か月だけだから!」と言って、実はすでに5年経っています。今も帰省するたびに「私たちの夢は、いつか彩ちゃんが草を引き取ってくれて、二人で長い旅行をすることやわ」と両親に言われ、肩身の狭い思いをしています(写真は後日両親からメールで送られてきた画像)。

会社を辞めたと事後報告すると、気丈な母に泣かれました。母の涙は祖母のお葬式とこれの合計2回しか見たことがありません。「お父さんもあなたがどうしようもない状態になって、最後はお父さんの扶養家族になったりでもしたら、なんとも言えんわと言っているわよ」と言われました。離婚のときは「私はあなたを応援するわ」と言っていた母がここまでショックを受けるとは。それだけ心配したのでしょう。そりゃそうですよね、離婚しても自活できていたけど、これからは37歳にして収入ゼロになるわけですから。「心配しないで。何があっても金銭的に頼ることはないから」と言って、半ば猫を押し付けるようにしてサンフランシスコ行きの飛行機に乗ったのです。親の心、子知らずとはまさにこのこと…。

そしてその後待ち受けていたのは、円安の悲劇と英語の迷宮での奮闘の日々でした。

ー#2に、つづく