カリフォルニアのタイ森林派仏教僧院でふれた、持たない自由と手放す豊かさについて。

楽天グループ創業者の三木谷浩史さんが、魅力あるサービスは、洗練されているけど易しさや温かみがあったり、高級感があるけど親しみやすかったりと、相反する概念を内包するとお話されていました。日本は包み込みの文化ですし、仏教などの精神世界でも、真理は二元性を超えたところにあるとされます。確かにカリフォルニアのタイ森林派の僧院では、托鉢用の鉢と着ている修行衣だけで暮らすお坊さんたちと過ごしましたが、最低限しか持たない彼らが惜しみなく与えてくれ、本当に自由で豊かだと感じました。そこには持たない自由と手放す豊かさという相反する概念が内包された世界がありました。なかなか実行するのは難しいことですが、今回はそこで度肝を抜かれ続けた体験についてお話したいと思います。

2年間アドレスホッパーして、僧院やスピリチュアルセンターを渡り歩く。

私はアメリカで5年弱暮らしましたが、最後の2年間はスーツケースに寝袋と春夏秋冬の服を詰め、スピリチュアルセンターや禅センターを渡り歩きました。一番長く暮らしたのは、ニューメキシコ州にあるウパヤ禅センターです。ほかに、トランスパーソナル心理学のメッカであるエサレン研究所や、スティーブ・ジョブズが修行した曹洞宗のタサハラ禅センターでも生活しました。

寝食をともにし、一緒に働いて学び合ううちに、仏教ひとつとっても、大きく2つ流派があるんだなと気づきました。上座部仏教と大乗仏教です。私は良くも悪くもとりあえずやってみて学んでいくタイプなので、この流派の違いも実は修行しながら気づきました。それまでよく知らなかったのです。大乗仏教の戒律の厳しい版が、上座部仏教なのかなぁと、誤解していたときもあります。

大乗仏教とは?

私が暮らしたアメリカのウパヤ禅センターやタサハラ禅センター、初めて瞑想やマインドフルネスについて教わったティクナットハン禅師が説くのは、すべて大乗仏教です。

日本もまた、大乗仏教の国です。中国や韓国、チベットもそうです。英語では、Mahāyāna Buddhism(マハーヤーナ仏教)と呼ばれます。大乗仏教では、出家、在家を問わず、利他の行いですべての人が救われるとされます。戒律はそれぞれですが、日本のように妻子を持つ僧侶や、お酒やお肉を食べてよいところもあります。

ウパヤ禅センターでは、最初の4か月間は、修行前に付き合っていた相手でも男女交際は禁止。その後僧院長や老師の面談で許されれば、修行の妨げにならない交際が可能。結婚したカップルもいます。肉や魚はありませんが、乳製品と卵は食べてもよかったです。これはタサハラ禅センターも同じような感じでした。




大乗仏教のお手本は、観音菩薩。

大乗仏教では、目指すお手本は観音菩薩です。「観自在」菩薩とも呼ばれますが、その字のように、現実をありのまま自由自在に認識し、自分のことも世界のことも移りゆく出来事として観察する客観性がある。木よりも森を見るような広い視野を持つ存在です。

そして、「菩薩」という言葉が表すように、自ら解脱しながら、他の人たちの嘆きを聞いて解脱を助けるためにこの世界にとどまり続ける大きな愛の象徴です。チベットの人々は、そんな観音菩薩をチベットの守護尊と考えています。

タトゥ率も高かったタサハラの暮らしについて:電気は太陽光、川の水で洗濯し、温泉は先住民の聖水。スティーブ・ジョブズも修行したアメリカの元祖禅道場「タサハラ禅マウンテンセンター」で暮らしてみた!

上座部仏教とは?

いっぽう上座部仏教では、出家して悟りをひらいた僧侶のみが救われるとされ、在家の人たちはお布施などで功徳をつみます。英語では、Theravada Buddhism(テーラワーダ仏教)と呼ばれます。誰でも悟りをひらくことが出来るという大乗仏教と、この点が大きく違います。タイやスリランカなどの国は上座部仏教で、妻子を持たず、托鉢の僧が一生僧院で過ごす姿が見られます。

ウパヤ禅センターの生活を終えて、日本の總持寺の接心(坐禅集中合宿のようなもの)に参禅した後にバークレーに戻って、Kazさんの本の翻訳していました。そしてKazさんが初めて道元を英訳した人だと知りました。大乗仏教のアメリカの禅センターでは永平寺を建立した道元の教えはバイブル的存在でした。そうなったのが多くを語らないKazさんの貢献が大きいことも禅センターで修行しながら学びました。とはいえKazさんの家に居候しながら、私はアメリカの仏教を体験したといっても、大乗仏教しか修行できていないので偏りがあるなぁと感じていました。

Google取材で出会った、タイ森林派の瞑想実践者。

そしてふと、BRUTUSという雑誌で、Googleの人材開発部に所属し、社員にマインドフルネス瞑想を指導するビル(Bill Duane)さんに取材したときのことを思い出しました。右腕に四谷怪談のタトゥが入っていたビルさんですが、そういえばタイ・フォレスト仏教の実践者だと話していたな。

参考記事:ビルさんのBrutus記事など

タイ・フォレスト仏教ってなんだろう?と。

こういったフッと意図せず何かがつながったときには、たいてい大切なヒントがあります。シンクロニシティや直観です。
参考記事:シンクロニシティ(共時性)を起こすコツ。意味のある偶然をつかんで幸運体質になる方法

多くの欧米の弟子を育てたアーチャン・チャーの手放す生き方。

調べてみると、タイ・フォレスト仏教とは、日本語ではタイ森林派と呼ばれ、タイにおける上座部仏教の流派のひとつでした。二つ主要な僧院がありますが、その一つのワット・パー・ポンを設立したのはアーチャン・チャーというお坊さんです。日本でも『手放す生き方』などの本が有名です。

アーチャン・チャーは、多くの欧米人の弟子を育て、イギリスにあるアマラワティ僧院が有名です。アメリカでは、ヴィパッサナー瞑想(コーンフィールドは、インサイトメディテーションと呼ぶ)を広めた臨床心理学者のジャック・コーンフィールドという人がいるのですが、彼もまた1970年代にアーチャン・チャーに学びました。




ユカイアにあるアビギリ仏教僧院(Abhayagiri Buddhist Monastery)へ。

「上座部仏教のここで修行してみよう」との直観に従って、カリフォルニア州でタイ森林派仏教のプラクティスが在家者も一緒に行えるところは、と探しました。すると、北西部のユカイア(Ukiah)という街に、アビギリ仏教僧院(Abhayagiri Buddhist Monastery)が見つかりました。

アビギリは出家したお坊さんたちが修行する僧院であり、リトリートセンターや瞑想合宿施設ではありません。つまり坊主頭で僧衣に身を包み、托鉢用の鉢を持つお坊さんたちと一緒に作務をしたり、瞑想したり、お経を読んだりと暮らしながら、見様見真似で学びます。

翻訳しながらKazさんに「アビギリに行ってみようと思う」と話しました。すると、Kazさんはお経の本を書いたことがあり、当時いろんな宗派の慈悲の瞑想の文言を探しながら一番いいなと思ったのがタイ森林派の慈悲のお経だった。お経を掲載したいと僧院に問い合わせたところ、担当のお坊さんがとても感じが良かったと教えてくれました。

参考記事:いい気分だといい情報にアクセスできる

私はKazさんのこういうところが大好きです。大乗仏教じゃないとダメなどと枠組みにとらわれず、良いものを良いと選べる自由さと見極める目をお持ちだからです。Kazさん自身、書道芸術家であり平和活動家であり仏教研究者といろんな側面をお持ちです。そしてそんなKazさんがいい人というなら、ますますここの人たちにお会いしたいなと思いました。

宿泊は初めての場合、最低3日間から。一週間までの滞在ということでしたが、長くすることもできるようでした。事前に僧院に連絡し、お坊さんとやりとりしながら滞在日や日数を決定します。私が泊めていただいたのは、とても広い個室でした。物がほとんどないので、さらに広く見える。アドレスホッパー中に小スペースで暮らすことに慣れていたため、ベッド周りの隅っこだけで生活していました。さらにはペットボトルのお水まで、お坊さんが「どうぞ」と手渡してくれます。す、すごい…。

アビギリでの生活。食事は?

食事は朝にオートミールが出て軽く済ませます。お昼はしっかりとしたメインで、在家の人からの寄付の食事もあって、とても豪華なビュッフェ状態です。僧院では調理しませんが、在家の人が持ってきた肉や魚が出ることもあります。夕食はありません。そのかわり夕方にお茶の時間があって、そこでお坊さんに質問ができます。最初の三日ぐらいはお腹がすきましたが、それを過ぎると夕食がないことで朝に目覚めやすく、瞑想も深まりました。

昼食に出される色とりどりの食事ですが、甘いものも辛いものも、スープやおかずもすべて、お坊さんはひとつの鉢にいれます。「ごちそうもデザートも全部一緒くたになって、味がわからずもったいないな」と思いましたが、それは風味や好物にとらわれず、すべて有り難くいただくための実践なのだそうです。出家者と違って私たちは、スープ皿やプレートをお借りできます。

費用は寄付制。小さな箱にお金を入れる。

ウパヤ禅センターで痛感したのは、檀家を持たないアメリカの僧院は、お葬式の収入もなく、ワークショップやリトリートの収入やドネーション(寄付)なしには運営が成り立たないことです。だからここでは滞在費が一切請求されないことに、とても驚きました。お布施という形で払うことができますが、それも人目につかない場所に簡易な箱があって、任意でそこに自由にお金をいれるというだけのシステムです。お茶の時間に僧院長に手渡すこともできますが、それはそれでちょっと仰々しく、箱制度を利用している人のほうが多く感じました。




楽しそうに働き、惜しみなく与える豊かな出家僧たち。

午前中はお坊さんと一緒に仕事をします。私は食事を作る当番になりましたが、彼らは本当に楽しそうに働きます。不謹慎ですが、とてもナイスな性格で若いハンサムなお坊さんたちが多いので、「なぜ出家したの?」と不思議に思い、尋ねたことがあります。

すると腕まくりして両腕にびっしり入ったタトゥを見せてくれ(タトゥは、アメリカ仏教修行あるあるです)、「僕は昔あまりよくないことをしていて、とても不幸せだったんだ。いろんな瞑想やリトリートセンターにいったんだけどひどい鬱状態になってしまって。ここでの生活で初めて幸せだなぁって思えるようになって、家族とも話せるようになったんだよ。今は生活から一つひとつ学びを深めていきたいと思っています」と言葉を選びながら、誠実に答えてくれました。

僧侶たちの誠実さと、しっかりと相手に向かう姿勢について、こんなこともありました。

「実はあまりタイ森林派の教えを知らないから、修行に来たんです」と一人の僧に明かすと、翌日ロッカーに小さなメモが貼ってありました。そこに書いてあったのは、

「日本語で書かれたアーチャン・チャーの本を僧院の図書館で探してみました。3冊だけ見つかりました。少なくて申し訳ありません。もしもご興味あればと思って、図書館の入り口の棚に置いてあります。ご興味なければ、そのままにしていただいて構いません」。

びっくりです。ホテルでも一般客に対して、向こうからのこんなサービスってないんじゃないかなぁ。

知識だったり、サービスを惜しみなく与えると、それが返ってくるのかな、これはやり続けられるのかなと少し不安になるものですよね。アビギリでは「それで、大丈夫!!バチコーイ(※イメージ)」をとことん貫くお坊さんたちの豊かさと自由のエネルギーにただただ圧倒され続けました。外の世界と全然違うけど、こういう世界もあるんだなぁーと。当然豊かなお布施があってこそ成立するんでしょうが、卵が先か鶏が先かという話のようにも思われます。彼らはどのみち豊かなエネルギーをまとうのだろうな。

確かに人間が崇拝してきたのは、神や太陽や大地のように見返りなく与えるものたちです。その太っ腹さや気前のよさにパワーを感じ、私たちは尊重せずにいられないのです。さらにいえば、与えたいという欲求も奪いたいという欲求もなく、ただただそれは自身を現しただけの状態です。そこには見返りを期待しない自由と持たない豊かさがあり、その大きなエネルギーに包まれると、こちらも満たされて自然と感謝の心が伝えたくなり、別に頼まれなくても「ありがとう!」とお返ししたくなるのです。私も無収入でしたが、バチコーイと(自分サイズではありますが)お布施しました。しっかり向き合ってくれて与え続けられると、とても豊かな気分になれたんですよね。

最後に恥ずかしい失敗談があります。実は私、最終日の草むしり中に女子トイレの鍵を預かったのですが、それをすっかり忘れて「ありがとうございましたぁー!」と持ち帰ってしまったんです…。それに気付いて、郵送で送り返す際のやり取りも、担当のお坊さんがとっても丁寧。お詫びしなければいけない話なのに、鍵が届いた後にはキチンとお礼のメッセージまでいただいて…。あぁ、穴があったら入りたい。その代わりにその姿勢を見習いたいと思います…。

コロナ渦で海外はおろか、国内旅行も難しいですね。そこで、アーチャン・チャーの『手放す生き方』で、お部屋のおこもりタイム。心のろうそくをポッと灯してみてはどうでしょうか。




アイキャッチ画像:“Meal at Abhayagiri Monastery, Redwood Valley, Ca”by bwaters23 is licensed under CC BY-NC-SA 2.0