幸せのカギ、マインドフルネスや「いまを生きる」とはどうすればいい?

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幸せのカギを描く『いまを生きる』という有名なアメリカ映画がありますね。マインドフルネスでも”今ここ”に心を置くこと。スピリチュアルリーダーのエックハルト・トールも”パワーオブナウ”、今に意識を向けることで得られる力。つまり、いまを味わうことと幸福との深いつながりを強調します。でもそれって、どういうことでしょうか?アメリカの禅センターでの体験からお話ししたいと思います。

幸せのカギ、マインドフルネスやいまを生きるってどういうこと?

中学生のときに、大好きなアメリカ人の先生がいたんです。アダムス先生という小柄で大きなメガネをかけた笑顔の可愛らしい女性でした。

先生ともっとお話しできるようになりたいと、彼女が顧問だったESS部に入部しました。

英語はうまくなりませんでしたが、そこでアメリカ映画『いまを生きる』の演劇をすることになりました。

ロビン・ウィリアムズが演じる型破りな教師が、生徒たちに詩の美しさや人生の素晴らしさを教えるという物語です。

私は端役で、セリフはひとつ。

ロバート・ヘリックの『処女たちへ』という、以下の詩を読む生徒の役です。

Gather ye rosebuds while ye may,

バラのつぼみは早く摘め

Old time is still a flying:

ときは過ぎゆく

And this same flower that smiles today,

今日咲き誇る花も

Tomorrow will be dying

明日は枯れゆく

日本語でいうと、“光陰矢のごとし”ですね。

とはいえ当時の私は13歳。人生の時間に限りがあるという実感もまだない頃です。

英語もよくわからないし、音として覚えたものを暗唱しているだけで、よく理解もできていませんでした。

でも振り返れば、すごくよい経験をさせてもらっていたんだなぁと。

いまでも、この詩は覚えています。

それから何十年も経ちました。

そのあいだにいろんなことがあって、大切な人も失いました。

マインドフルネスにも出合いました。

ヨガのTTコースを修了してヨガや瞑想などの力も借りて、「いまに心を置く」練習もしました。

でも、いまを生きるということは、つかんだと思っても、ふわりと消えゆく雲のようで。すごく難しくいのです。

私たちは、いまよりも未来のことを考えて生きることを推奨されているからだと思います。

たとえば編集者だったときは、2か月先、3か月先の特集をまわしていました。夏には秋冬物の展示会、冬には春夏物の展示会。

次のトレンドはなにかを探り、発注した洋服が届くころには、「こんなの買ったっけ?」と、もう古い感じがして、ピンときません。

だから値札も切らないままタンスにそのまましまい込んでしまうこともしばしばでした(もったいない!)。

そんなある日、不動の人気もお金も愛も全部持っているとされる著名人の方に取材させていただきました。

彼に「なんでも持っているあなたにとって、幸せとはなんですか?」と聞いたんです。

すると、「幸せは、夕日を見たときに、キレイだなって思える心があること」。

そういわれたんです。

幸せとは、いまを感じられる心を持つこと。どんなときにでも横たわる、美しいものに気づく心があること。

アーティストだった彼にとって、価値や感動をうむための感性ともいえるでしょう。

「あぁ、最近、夕日見ていなかったな….」

そう思った私は、取材の後に、横断歩道を渡るときにひとつ信号を見送りました。

夕焼けが胸を染めるまで、空を眺めたんです。

このように心を感じるとき、自分が感じているものを自由にさせるときには、胸のよろいのようなものがとれて、無防備になります。

無防備になることは、危険です。とくにエゴにとって、思考のコントロールを失ってしまう恐れがあるので、脅威です。

けれども、よろいを外さなければ、私たちは愛や喜びも感じることができません。

また、離婚したときのことです。

特急が停まる駅から各駅停車の駅に越しました。引っ越しを終えたその足で、会社に向かいました。

初めての駅で電車を待っていると、急行電車がピューっと過ぎ去っていったんです。

そこで、

「みんなと同じペースで頑張っていたけど、ドロップアウトしちゃったな」

そう思ったんです。

すると悲しい気持ちと、情けないやりきれない気持ちが押し寄せてきました。

それを味わってみると、同時に、妙にホッとしたことを今でも覚えています。

ありのままの自分を明らめて、そうなんだな、そう感じているんだなと認めたこと。

それにホッとしたのだと思います。

各駅停車の駅での暮らしは、思っていたよりも快適でした。

徹夜も多い仕事だったから、なるべく会社の近くで通勤時間が短いほうがいいと思っていたけど。帰宅して駅に降り立つと、ホッとしました。

また、家の近くには大きな公園があって、緑が青々としていました。

感じる心をオープンにすると、木漏れ日で輝く木々が「ようこそ」「大丈夫だよ」と言ってくれているようにも感じました。

そこで、毎朝公園を走ってから出勤していました。

でも私たちは、いまを味わうことよりも、未来や将来を追うことが推奨されます。

スローよりもスピード。マイペースよりも協調力。

立ち止まることよりも、前を進むことが尊敬され、評価されます。

ウディ・アレンの言葉でいうと、前に進んでいないと死んでしまうサメのように。

だからちゃんとみんなと肩を並べて、なんならみんなよりもちょっと先んじて、前に進めていないと、焦るし、不安になります。

もちろん、前進したり、成長を望むことは、素敵なことでもあります。

たとえば「もっとよいものが欲しい」と願うスティーブ・ジョブズの切なる思いが、今私がこれを書いているMacBook Air誕生につながりました。

でも、それで心がいつも置き去りになっていたとしたら。

どこかでしわ寄せがくるんだと思います。

しわ寄せというと、怖い響きですね。

それは確かに病気だったり、強制終了がかかるような出来事だったり。表面的には嫌だなぁと思う体験もよくあります。

でもそれは、本来の私たちに戻るための振り子のようなものなんだと思います。良いも悪いもなくて。

本当の私たちは魂で、焦ったり、不安になったりすることもふくめての道のりを楽しんでいるのでしょう。

心と体で味わいきりたい、体験したいと、この物理世界に存在しています。

だから、いまを生きる。いまを味わい切りたいと心の奥底で思っています。

それが幸せなのです。

本当の私たちは、手のひらの上で悪さをしている孫悟空を見つめるお釈迦さまのようなものだと思うんです。

孫悟空というのは、右往左往する、魂である自分のことを忘れた私たちの心や体のこと。

でもそれを深く悟りきってしまうとゲーム終了。プレイできません。

だから、私たちは生きる限り、大なり小なり、手のひらのうえで試行錯誤するようにできているのだと思います。

そこで、そんな自分がカッコ悪いなぁとか、スマートじゃないなぁとか。

いつも同じような過ちを繰り返してしまうなぁと思ってしまったりもするけど。

それでいいのだと思います。

そして、そこに気づけたというのは、気づいていなかったときとは、まったく違います。

むしろ、そのカッコ悪さとかスマートじゃなさとかも含めて感じ切ること。味わいきること。

そうすることで魂が喜び、ふっと心も浮上して余裕が生まれます。

なにをやっていても、やっていなくても、あなたの場所で、あなたでいることは、あなたにしかできないことです。

あの人と比べると、平凡でとるに足らないようにみえても、それはあなた以外の人には決してできない、特別な体験と道のりなんです。

あなただけの物語を紡いでいます。

そこで放った輝きは、川に投げられた波紋のように川全体に影響を与えます。

どんな小さな思い、言葉、決断、行動も、すべて全体に影響します。

誰かに尻込みするようなことを聞かれても、それが恐縮するような相手でも、今のあなたが一番しっくりくる言葉を、丁寧に偽りなく答えればいいんです。

いまあなたが感じていること。その真実を表現すればいい。

それがいまを生きること。

そしていまを生きるあなたを周りの人たちに贈ることだと思います。

参考:心にしたがって生きるとは? 移り変わる世界で変わらないもの。

私がアメリカの禅センターで暮らしていたときのことです。

アメリカ人の僧侶でセンターのプレジデントだったコウザンさんに、「何をやっているの?」と、仕事のことを聞かれたんです。

アメリカにいるとき、これが私の一番苦手な質問でした。

というのも、宙ぶらりんで根なし草のような自分に劣等感を抱いていたから。

ナバホ族の集落でとことん自己嫌悪になった私は、自分の言葉が信じられなくなりました。嘘っぽいなぁと思ったんです。

それで何も書けなくなりました。

となると記事を書いていないからライターでもない。学校に行ってないから学生でもない。当然、会社員でもない。

私の仕事って、肩書きってなんだろう?と。

今でも「何やっている人か」と聞かれると、あまりうまく答えられないのですが。今は、「まぁ、いいじゃないか」と(笑)。

対して昔は、そのことに対して、もっとずっと切迫感と劣等感を抱いていたんですね。

「ダメだ」「私は十分じゃない」と。

そして、世間体や社会の枠組みから定義するものを失った自分のことを、とてももろく感じて、劣等感も抱いていました。

だから、「なんでしょうね….」と、困ったような愛想笑いを浮かべていました。

いつでもいまの自分ではない、かつての自分や、自分ではない誰かになりたい、目指したいという思いに引っ張られていたのだと思います。

そこで私はこんなふうに、心で感じたものと体で表すものが一致しない愛想笑いばかりしていました。振り返れば、だから顔面麻痺になったのかなぁ。強制終了がかかったのかなぁとも思っています。

話を元に戻します。

するとコウザンさんが「じゃあ10歳のとき、なにになりたかったの?」と聞いてきたんです。

そんなこと、ずっと聞かれたことがない質問でした。

でも、すぐに答えられたんです。

胸がオープンになっているのがわかりました。

「漫画家です」と即答。

私は小学生時代、かなりのオタクで(笑)。お小遣いでスクリーントーンを買いにいってはGペン(知ってます?)でカリカリと漫画を描いていました。

のちに体験したことのない物語を思いつけないこと。絵が特別うまいわけでもないこと。この二つの理由で挫折し、筆を折りました。

封印していた過去です。

中学生以降、誰にもいったことがない話をコウザンさんに共有して、無防備になったように感じました。

でもそれを「だからなんだ」「これが私なんだ」と目の前の人にいえた。ビッグ・ダディ的に(笑)。

それで私の中のエネルギーがグルンと全身を駆けめぐって、コウザンさんにも届いているのがわかりました。

「漫画家かー!」とコウザンさんが意外そうに目を大きく開いて、笑顔になりました。

「コウザンさんはなんですか?」と尋ねると、「僧侶になりたかったんです」と即答されました。

コウザンさんはとても裕福な白人一家の出身です。元々はジャーナリストとして活躍し、僧侶であるかたわら、持続可能な形のエネルギー会社を運営されていました。

「まわりに仏教徒の人がいたんですか?」と聞くと、誰もいないといいます。

私も同じように驚いていると、深く静かで穏やかな世界に生きたかったからだとおっしゃいます。

そこで、私も少しずつ自分の現状について、コウザンさんに打ち明けたのです。

もともと雑誌の編集者をしていたこと。

小さい頃から目に見えない世界や、スピリチュアリティに興味があったこと。

キワモノではない形でその力を伝えたくて心理学を学んだこと。

けれども、どんどん頭でっかちになってしまったこと。

その後、ナバホ族の集落で暮らしたこと。

参考:ありのままの自分で本当に幸せになれるの? マガジンハウスからホームレス編集者へ。アメリカ先住民ナバホ族の集落で死にかけて学べた私の幸福学。

その体験で自分の言葉が薄っぺらく感じて、なにも書けなくなったこと。

そこで禅センターにきたこと。

いまは、レジデントの一人で精神科医のシグルンに薦められて、ナタリー・ゴールドバーグの文章指南本(以下)を読んでいること。

書けるひとになるー魂の文章術ー

ナタリーは禅センターに毎朝坐禅に来ていた作家です。

そして、「いまの私にとっては、ナタリーの本が穏やかな世界につれていってくれるんです」といいました。

参考:自然なあなたが一番美しい。ドス黒い感情やダメな視点にも価値がある! 不安、怒りを「書いて」陽転させる方法。

「なぜ?」と聞かれたので、

「自分が自分じゃない人間になろうとしているのに気づくことができるから」

するとコウザンさんに「自分じゃない人間?」と尋ねられました。

「誰かを満足させるために自分のことを無視している自分のこと。本当の自分は、誰かも自分も両方満足している状態のこと」と答えました。

するとコウザンさんが「それがどっちかわからなくなるなぁ。どうやって気づくの?」

「私にとっては…瞑想が助けになります。だからこの場所にいま、います」

「そうですね、だからここに今いる」

「はい、だから私はいま、ここでプラクティスしています」

そして二人でにっこりと微笑みました。

禅センターでは、しばらくのあいだ、坐禅が始まる前に、木板を打つ役をしていました。

ときを知らせるために、木の板を小槌で打つんです。

特定の打ち方があって、15分間集中して規則とおりに打ちます。

ところが板に集中していないと、ズレて叩いてしまったりと、キレイな音が立ちません。

だから木板の音で、自分の心のブレがわかるんです。

打ち終えると、最後に禅堂に入り、末席で坐禅を組みます。

その繰り返し。

それ以外の時間は、20人から100人近い人たちの食事を作りつづけていました。

冷静になってみると、

「一体なにをやっているのかなぁ?」

「これがどうキャリアに影響するのかなぁ?」

「この先につながっていくのかなぁ?」

と、未来のことを考えると、不安になりました。

けれども、そんなことを考えていると、木板の音は、コーーンッと気持ち良い音を立てません。

だから、何度も、いまここに心を傾けて、板を打ち続けました。

そんな毎日を繰り返したある夜の坐禅を終えたときのこと。

自分でもびっくりするぐらい、大きな感動が胸からぐわっと溢れてきたんですね。

禅堂にいる人たちが輝いているように見えました。

大切な時間を使って、禅を学びにきてくれた人たち。

日本の文化をお金と時間を使って真摯に学び実践しようとしている異文化の人たち。

彼ら全員にものすごい感謝の気持ちが湧いたんです。

残念ながら、毎回そうでないではないのですが。

そのときは感謝の気持ちや愛がグワァーーと押し寄せてきたんです。

胸が熱くなって、開いているのがわかりました。

私は、アメリカで暮らして、生まれて初めて、自分のアイデンティティを失ったように感じていたから。自分はマイノリティー(少数派)だと実感して、日本人であることも、少しずつ重荷に感じるようになっていたんですね。

トランプ元大統領が大統領になったタイミングでの下校途中。知らないホームレスの男性に「Go Back to China!(中国へ帰れ!)」と、ゴミを投げつけられたこともありました。

その心の鎧が少しずつ、禅センターでまったく自分の未来や将来に関係のないように見えるけれど、自分に割り当てられたタスクに心を傾け続けるうちに、時間をかけて溶けていったんですね。

だから、思うんです。

目の前にやってくるものは、たとえそれが毎朝昼晩と木の板を打ち続けことだったとしても。

それがどんなに自分と関係なさそうに見えることでも、今のあなただったり私だったりにだけ、与えられたものなんですね。

そこで、なにがいいたいかというと。

幸せのカギとされる、マインドフルネスや「いまを生きる」ってどうすればいいのかというと。

あなたがいま、なにをやっていても、なにをやっていなくても。

究極的には、それでいいということです。

そういう表面的なことは、ある意味どうでもいいというか、あまり関係なくて。

必要なことは、自分なりの問いかけを持ちつつも、目の前にやってきたものを感じきり、広さよりも深さを味わいきること。

それでいいということです。

 

写真は、禅センターの近くで出会った猫です。

すごい柄だしでっぷりして、にらみまできかせてくる。

全然愛想よくないです。ニコリともにゃあともいわない。でも、その堂々とした「私である」という在りように心惹かれて思わずパチリと撮影したものです。

それでいいのです。