home 会社を辞めて、こうなった。 TOEFLの点数が足りないまま謎に受かって、「わからん」の日々#12

TOEFLの点数が足りないまま謎に受かって、「わからん」の日々#12

引退した後に伯父夫婦が当時住んでいたのは、テキサス州のサンアントニオという街でした。自分専用のお風呂とトイレ付きの美しい部屋が与えられ、毎朝ジョギングしていると、大量のペットボトルの水が用意されるように。

極楽ですか?

 

サンフランシスコでは半年あまり、コーヒー一杯で煙たがられながらカフェのwifiで勉強し、美容学校併設の格安サロンで切った髪はボサボサ、オーナーの家の物置みたいな部屋で暮らし、ドアマットかボロ雑巾のように生きてきました。それが伯母の愛情こもった日本料理のご馳走に森伊蔵までついた、やんややんやの大宴会。しかも日本語! ラク!!1日で英語を一気に忘れました。さらにはアラモの砦や、川沿いにカフェやレストランが立ち並ぶリバーウォークへの観光まで。初めて会った中年無職進路不明の姪にも関わらず、伯父と伯母は大歓待してくれました。

 

「こ、こんなに良くしてもらっていいのだろうか…」

「こんなに人生、ラクしていいのだろうか…」

「バチがあたるまいな」

 

努力や苦労はつきもの。そんな人生甘くない。

 

当時はわかっていなかったのですが、私にはそういうビリーフ(信じていること)があったので(いまだに多少ある)、喜びながら不安になるという、アクセルとブレーキを両方踏んでいるような状態でした。

 

そしてバークレー大出願のためのTOEFLの結果がオンラインでやってきました。結果は、86点。

90点から、4点足りませんでした。

落ちた。

 

そう思って、もうTOEFLのスコアをバークレー大に提出しませんでした。

従姉妹たちまで総動員して協力してもらって頑張ったけど、付け焼刃だとやっぱりダメだな。

もうバークレーの「バ」の字も出さずに、生きていきたいと思います。

 

伯父と伯母からは、8月から二人の家の近くのシティカレッジに通って、2年後にテキサス大に編入したらどうか、と言ってくれたけど、そんなに長く世話になるわけにもいかんしな…。

 

一体どうしたらいいのかなぁと思いながら、でも夜はまた酒盛りという。不安と開放感が混じり合った一週間を過ごしました。

 

ある日メールを開くと、バークレー大のプログラム担当教員より「アヤさん、おめでとう! 希望の研究室の候補を3つ出してくださいね」というメッセージが。

 

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解説しよう!

  1. 私の志望エッセイはFDA研究者である従姉妹が添削してくれ、ネイティブレベルだった。
  1. すでに渡米しており、学生ビザの申請が必要なかった。
  2. 推薦文は、会社の元上司のお偉いさんと映画のプロデューサーに書いていただいた。

 

ということでTOEFLスコアが必要な留学生と、みなされなかったのですね。

つまり、私はTOEFLスコアを提出せず、ネイティブ枠で受かったということです(苦笑)。

 

私が姑息にもTOEFLスコアの交渉を試みて面談し、「No Exception!(例外なし!)」と言い放ったプログラム担当のバークレー大の教員は選考者ではなかったということ。

 

運がいいのだか、悪いのだか。

その後の学部長を含めた初面談での英会話のボロボロさに、「何かがおかしい」と日をおうごとにバークレー大が気づき始めるのですが。。。(ときすでに遅し)

 

教官からのメールには一学期目は研究室の参加とともに、必ず大学生とともにGeneral Psychology(心理学概論)とStatistics(統計学)の授業を受講するように。中間も期末も受けて、成績がつけられます。

 

とあります。

 

このアメリカ人のメールというのがまたクセモノで、署名がガデという苗字だったり、クリスという名前だったりするから、私はすっかり別人だと思っていたのですが(ガデとクリスでテンションを変えて返信していた)同一人物のバークレー大の教員でした。

 

研究室の希望出しは、ケトナー博士のもとで「良いことをすると幸せになる」という研究をしたいからケトナー博士以外考えられない。

 

とメールすると、「その研究室はとても人気があるから確約できない」と返事。

 

でも1か月前にギフトエコロジーツアーで出会ったニップンさんが「ケトナー博士は古くからの友達だよ」と話していたり、シンクロニシティを感じていたので、なんとかなるだろうという不思議な自信がありました。

 

確かに、ケトナー研究室がちょうど名古屋大学と共同研究していたことから、日本語を英訳できるサポーターが必要ということで、野良犬みたいな私がタイミングよくスポッと入れたのです。

もう一人のプログラム生は、私とは全然毛並みの良さが違う、ハーバード大卒の弁護士…。

 

少しずついろんなことが進んでいくにつれて、「ヤバイ…」がリアルになってきます。

 

あと3週間しかないではないか。

またあの地獄の部屋探しか…、しかも私は今テキサスにいる。

行き先が見えてホッとしたけど、この楽園は3週間で終わりか。

「で、Statisticsって何?」。(Googleで調べる)。

統計学。日本語になっても、何かわからないんですけど。

 

ネットで検索すると過去の授業のYouTUBE動画がみつかったので、3万円近くの教科書を2冊買い込み、何度も読んで、授業動画の音声速度を落とし、何度も見ながら勉強です。

(しかし実際にはまったく違う教科書が使われることとなり、内容も「統計学」とはいうものの、Rという統計ソフトを使ったプログラミングの授業でした。最初の2か月ぐらい何が行われているのか全くわからなかった)。

 

2か月前はドクタースースの絵本、1か月前からTOEFLの教科書、そして今、大学生レベルの心理学と統計学…。スピードが速すぎる。生き急いでいる。

 

教科書は知らない単語だらけに加えて、「人生でもう一生会わない」と決意していた数学との再会です。

ちなみに私はエスカレーター式の学校に通っていたので、因数分解を終えてからは、数学をやらなかったんです。好き勝手にカリキュラムを組んで、フランクロイドライトが好きだったのでアメリカの建築とかフランス語(という名のもとのフランス映画鑑賞)の授業を取って、好きな本を読んで暮らしていました。これが私の人格の基礎です。

 

ここで超後悔しましたね。

「やっぱり、人生は甘くないんだ」

「好きなことばっかりしていても、いつかやりたくないことをしないといけない時期ってやってくるんだ」

と。

 

今考えればこれもまた、当時の私にそういう観念(belief=好きなことばっかりやれるほど人生甘くない)が

色濃く出たから、そういう現実を体験していたのだと思います。

 

ただ、このとき私が身につけられたのは、全然わからなくても、興味の範囲とは違ってもしがみつくという習慣。「わからん」「わからん」「わからん」と思いながらも、1章を読むだけで8時間かかっても(さらにはそれでもさっぱり意味がわからなくても)、一字一句調べて、べったり張りついて、断片的な情報を寄せ集めて、いろいろ組み合わせてみて、guess(推測)する。あきらめない。

 

そうすると全然わからないなりに、3か月単位とか、1か月単位とかで、ふとわかってくることがあります。前には、ゼエゼエ言っていたものが少しラクになっていたり。その渦中にいるときは、とにかくいつもビリケツを全力で走っているから、前ばかり見て自分の小さな成長には気づけないものですが。

 

地味なことをコツコツ積み重ねることは、結構力になる。これも体験から学んだことです。

奇跡を期待せず、日々淡々とやっていたら、オールAが取れたりしました。

GSIという大学院生の教授補助のような先生を毎週捕まえて、質問して、ちょっとした懐柔(「これだけ英語が不便なのだから、読んで理解できたらいいだろう」と文法的なミスを大めに見させて採点させるなど。姑息)もしましたが。

 

あと私が頑張れたのは、やっぱり授業料がむちゃくちゃ高かったこともあると思います。

人間、払った分は、元を取らないとという吸収力が全細胞から全力で湧き上がるような気がします。私がケチなだけかもしれませんが(でもケチって経知と書くんですよね)。

 

だって授業料は、1学期で15000ドル!(私の為替レートで189万円)。

4学期で奥さん、教科書含めて800万円ですよ。

2年の家賃含めたら1000万円超え。当然奨学金なんてないから無職で自腹です。

 

堅実雇われ会社員だった人生でこんなに一気にお金を使ったこともないし、

しかもこのプログラムは学位が取れないものだったので

(いうならば博士課程に進むための予備校みたいなもの)形がないものへの投資です。

大学院に行けなければ、おじゃん。

自分が今やっていることを信頼するしかないっていう練習です。

 

銀行でぶるぶる震えました。15000ドルの小切手を書き、アメリカの安全システム全般に疑いを持っていた私は「これ、絶対大丈夫でしょうね??」と何度も郵便局で念押しし、発送しました。

 

これだけ払うんだから元が取れるぐらい、勉強しないとなと決意したんです。後悔したくなかったから。

親のすねをかじっていた学生時代もこれほどの覚悟で勉強していたらと思って自責しましたが、今思うのは、そういうふうにすぐわかる人もいるし、私のように中年になってやっとわかる人もいる。それぞれのタイミングでそれぞれが必要なことを学ぶ体験をしているんだと思います。

 

バークレー大で勉強していたときは、若いみんなが本当に羨ましかった。こんな若いときから、こんなに深いものを学べ、こんなに恵まれた出会いや質の高い講師や教師とのコネクションがあってチャンスに溢れている。半分の年齢ですからね。歳は関係ないと思っても「若い人にチャンスを与えたいから」と言われて、アシストできなかった研究もあります。歳を伝えたら、話しかけられなくなったクラスメイトもいます。大学院を目指すなら最低でも「B」、ただし「A」が望ましいと言われ、ただただ必死に勉強していました。教授や大学院生のオフィスアワーに足繁く通って質問して。お腹がいっぱいになると眠くなるので、ほとんど食べないようにしたりして。大変だったけど、勉強が好きな自分の一面を知ることができたのは、発見でした。

 

その過ごし方でよかったのかな、と今は思うけど、あのときはあれで、精一杯。あとにも先にもあんなに勉強できたのは、幸せだったと思います。

ー#13に続く