まがったキュウリ

このおこもり時間を活かして伝記や自伝を読んでいます。みんな本当に波乱万丈で、七転び八起きどころの騒ぎではありません。死んでしまうまでは、志さえあればいくらでも挑戦し続けられるんだなぁと、そんな勇気がもらえます。

 

今読んでいるのは、『まがったキュウリ』です。カリフォルニアに渡ってサンフランシスコ禅センターを建てた鈴木俊隆老師の伝記なのですが、これはもともとアメリカ人のお弟子さんのディヴィット・チャドウィックさんが英語で書かれたもので、それをまた日本人のお弟子さんの浅岡正義さんが日本語で翻訳されたという。マクロビオティックやマインドフルネスのように、日本のものが欧米に渡ってそのエッセンスを受けて逆輸入されたみたいな本ですね。

 

その翻訳がまるでもともと日本語で書かれたもののように素晴らしく深みがあるので、一体翻訳者の浅岡定義さんとはどんな方なのだろうとみると、この本が出版される3年前に91歳でお亡くなりになられたようです。本を目にすることなく逝去されたとは心残りでしょうが、これほど素晴らしい翻訳をされる方なので、きっとそんな執着からは超越されているのだろうと、身が引き締まる思いです。

 

本は参考文献を含めて481ページという厚み、しかも二段というヴォリュームです。ひるんで数か月放置してしまっていましたが、この機会に意を決して向かうことにしました。結果、ものすごく面白い。本当に壮絶な人生です。

 

伝記や自伝に惹かれるのはやはり、過酷な状況でも凛と振舞う彼らの姿に癒され、「一体どういうふうに考えたり過ごすと、そんな精神状態を育てられるのかな」と、自分のペースに合わせてゆっくりと教えてもらえるからです。ダメな生徒でも喝を入れられないしね。

 

鈴木老師が敗戦後に満州から命からがら友人の息子を連れて帰国するときのエピソードにはハラハラさせられました。満州から乗った船が韓国北部で停まってしまいます。戦争中に他国に酷いことをしてきた日本人だから、いつ殺されてしまうかもわかりません。途中で降ろされ、港では「切符は販売しない。日本に行く船はない」と書かれた掲示板が貼られています。老師はこれに落胆せず、私には「切符は販売します。日本行きの船はあります」と読めると、毎日波止場に通いました。ある日「これだ」と感じた船の船長の乗船許可を取って、友人の息子を連れて博多港のそばに到着。港からの列車で途中3回空襲を受けながら、ようやく静岡に到着します。

 

帰国してしばらくすると、寺に出入りしていた精神衰弱者に奥様をめった刺しにされて、殺害されてしまいます。そして渡米後には母が殺された衝撃から回復することなく娘が精神病院で自殺します。「どうして仏の道をひたむきに生きる老師にそんな悲劇ばかりが起こるのか」と理不尽に感じるようなひどいことがたくさん起こります。私だったらそんなことが起きたら、とてもじゃないけど乗り切れません。このような壮絶な人生に触れると、今自分にとって試練に見えることがいろいろあっても、私の人生は幸せだなと改めて今を感謝できます。

 

彼は一体どういうものの考え方で人生を受け入れてきたのかと考えるなかで、本にあった次の老師の言葉が深く心に刺さりました。

 

あなたたちが特殊なもの、頼りにできると考えられる何かに依存する限り、独力で進んで行く十分な強さは持ち得ないでしょう。あなたたちは自分の道を見つけ出すことは不可能です。それ故、まず自分を知りいかなる標識も情報もなしに生きる強さを持たねばなりません——これが最も重要な点です。そこには真実があるとあなたたちは言います。しかしたくさんの真実があり得るのです。問題は、どの道をいくべきか、ということではありません。もし一つの方向に行くことだけを心がけ、あるいは常に標識に依存するならば、自分自身の道を見つけられないでしょう。最良の方法は、種々の標識を読みとる目を持つことです。私は満州に行ったとき、このような経験をしました。

−『まがったキュウリ』(サンガ)より

 

それは「方向は絶対ここから北じゃないといけない」ではなく、「今は東に行って、次は少し南、まっすぐじゃないけど、最終的には北を目指す」という柔軟性と、正しいコンパス(在り方)を持つことが大切なのでしょう。またひょっとしたら北が絶対と思っていたけれど、実はそこよりちょっと南の方が肌に合うのかもしれない。自分の正しさにとらわれすぎないこと。そうでなければ、人生はすべてが苦しみと不満になってしまいます。

 

ユダヤ人としてアウシュヴィッツ強制収容所から奇跡的に生還した精神学者ヴィクトール・E・フランクルの自伝『夜と霧』もまた、私にとって大切な教科書です。右か左かどちらの列に並ぶかというちょっとした選択でガス室に送られて一瞬で殺害されてしまうという、理不尽すぎる運命でフランクルが至ったのは、それでもどんなときでも人生には意味がある。さらに、無作為に殺される収容所のようなすべての自由が奪われたような過酷な環境でもひとつの自由が残されているということ。

 

人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない

—『夜と霧 新版』(みすす書房)より

 

本から、人から、その美しい在り方に触れさせてもらうと、やっぱりこの世界で生きることが出来て、とても幸せだなと思います。私は長い間ずっと、外的な条件にとらわれてきたし、今ももちろんそれはゼロではなくて当然あるんだけど、今は閉じこもって伝記から「美しい在り方」を研究中です。読んでいるうちに鈴木老師に触発されて、家を磨きたくなったので、全室床拭きしました。内面の掃除は難しいので、とりあえずまずは家の掃除から。ピカピカになった床を眺めながらミルクティーを飲んで、また伝記を読んで、あぁ幸せです。

どう在るか、という自由は私たちにいつも残されている。どんなときにでも。

それって、本当に。この世界ってすごいものですね。

それから、まがったキュウリという題も好き。まっすぐばかりじゃ、無いですものね。