自分の中に”愛”を持て

岡本太郎のこの本を読んでいます。出合ったきっかけは3年ほど前、逗子の自然のなかで保育所を運営されているマッタ(全田和也)さんにお話を伺いにいったときのこと。彼がいろんな人にもう何十冊と贈り続けている本だとおっしゃっていたんです。

参考:そのときのお話はこちら

宇宙的な動きをするマッタさん(※)が広めまくっている本だから気になるなーと思いつつも、アメリカに戻って禅センターで修行して…と無我夢中で過ごすうち、そのままになっていました。そして昨年末に、読んでみたいな、とamazonで買ってみたのだけど、病気になって入院。退院後もしばらく、三度の飯と同じぐらい好きだった読書もなんかしんどくて、積読のまま寝かしたすえに、今日ようやくページを開いてみました。

(※)日に日にあらゆるボーダーが薄れつつあり、嫁が怖がっていると話されていた。キリスト意識ですね。

で、こんな言葉が書かれた、真っ赤っかなページからスタート。

命を賭けて運命と対決するのだ。

そのとき、切実にぶつかるのは己自身だ。

己が最大の味方であり、また敵なのである。

その後、太郎さんが自分のポートレートにナイフを突き刺そうとしている写真が(上参照)。出だしから、もう刺激的!

岡本太郎さんというと、みなさんどんなイメージを持たれるでしょう。

私の場合は、一番は子どものころによく行った大阪の太陽の塔ですね。大人になってからは、表参道にある岡本太郎記念館併設の喫茶店「ア・ピース・オブ・ケイク」のチーズケーキが好きだったな。あとはアンアンで編集者をやっていたとき、本特集で、太郎さんご夫妻のこの本を取り上げたことがあります。俳優さんとかミュージシャンとか有名人の人にお気に入りの本を3冊選んでもらって紹介するというページだったけど、誰のオススメだったかは忘れてしまったな。これを読んだとき、ロマンスの人とはイメージが違った太郎さんの新たな一面に、驚きました。

そんなふうにあんまり太郎さんのことを知らない私ですが、踊るような極彩色の筆致の作品群と「芸術は、爆発だッ」という太郎さんのびっくりドヤ顔はすぐに頭に浮かびます。私たち日本人に、強烈な印象を残した人ですよね。

”意外な発想を持たないとあなたの価値は出ないー迷ったら、危険な道に掛けるんだ”とか、刺さる言葉が満載の本の中に、

自分らしくある必要はない。むしろ、“人間らしく”生きる道を考えてほしい。

という一文があって、そこには私は首をかしげたんです。

太郎さんは周囲に甘んじて安易に生きず、自分の筋を通して生きよ。結果が思うようにいかなくても、さんざん悪口を言われても、決意を通せ。そんな厳しさがあるから人生は面白いんだといいます。素敵ですよね。でもそれって、自分らしくあるってことじゃないんでしょうか?と、疑問に思ったんです。

私にとって自分らしくあると人間らしく生きるはイコールです。そして自分の筋を通して生きることを厳しいとかいばらの道とかと脳内変換するんじゃなくって、それはむしろ楽しいことだと捉えたい。当然人と違うことは保証もないし、一人だなーと思ったり、いろいろやったり考えることも山積みなんだけど、大変そうでも自分が決めたことでやらされていることではないから、その底には圧倒的な自由がある。だから、「己と闘え!」というエネルギーを発するよりも、なんかあの人楽しそうだなっていうエネルギーが流れている結果として、みんなが自分らしくありながら、同調圧力とは違う形で自然に集まってくるような感じを目指したいよなぁ。

太郎さんってそんな人の先駆けだと私は勝手に思っていたんだけどなぁ。その内側は、トゲトゲの針山みたいだったのかなぁ。しんどかったのかなぁ。

ハリネズミのジレンマのように、お互いハリネズミだと近づくと傷つけあってしまうけど、相手がハリネズミでも、表地がその針が全部すっぽり収まって、裏地がモフモフのふわふわ真綿のような服を着ていたら、ひよこでも心地よく過ごせるんじゃないかな。つまり、自分の感じ方を大事にしながらその生き方を貫けば、己との戦いにはならない方法も取れるんではと思うんです。

違う意見を言ったりすることで「あの人変わってる」とつぶされそうになっても、別にハリネズミみたいに外側に対しても闘う必要はないんじゃないかなとも思うんです。ユニークであることを大切にしても、闘いとか毒である必要はないのじゃないかしら。凡人のお前がそんなこと言うなってことなのかもしれないけど。でも凡人も超人も区別は無いよ、自分の内側の実感において。

と結論しようとした時点で、太郎さんが太平洋戦争経験者だったことに気づきました。独自の表現や不協和的な主張をするのが命がけだった時代を生きた人だから、闘う精神を起爆剤に気を張ってないと、己を失ってしまうのだとする脳内変換が仕上がったのかもしれないな。自分ごととして戦争を経験していない私には、どんなにいろいろ想像してみたところで、実感が無いぶんに理解できはしないのですが。

私が禅修行していたとき、山にこもって毎日坐禅三昧なんてサイコーっと思ってたのですが、実際はわりと忙しかったんです。早朝から朝食を90人分一人で用意したりして。トイレ掃除も一日30トイレごしごし洗っていたりしたら、もう汚いとか言ってられない状況なんですよね。いろんなバックグラウンドの人が集まって24時間共同体として生活するとなると、人間関係の複雑さは会社勤めのそれを超えるところもありました。

滅私奉公というか、仏道でも江戸時代の士族社会のような、葉隠の「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」的な、戦時中的な、自分の命を捨てても、主人(公)に尽くすのが美徳とされる外側の向きもありました。郷にいれば郷に従えっていうか、会社員時代も担当雑誌が変わったらまずワードローブから一掃してその雑誌流にするというタイプだったので、友だちには「山でもモーレツサラリーマンしているんだね」と苦笑いされたっけ。

でも、そんな禅センターでよく言われたのは、「トイレ掃除をしていても、グラノーラを混ぜていても、自分の感覚に戻りなさい。しんどいな、疲れたな、と思ったとき、自分の体がどう感じているのかな?と中心に戻りなさい。そして呼吸して安らぎのポイントを見つけなさい」ということ。内側では違ったアプローチをする練習を教わり続けていたんです。

内側で「大丈夫?腰がいたくない?」「あの人のあの言い方ってないよね」と確認しながら(誰にも言いませんが、心の中だけでは自分の執事になりきるっていう状態)、あぁ、私は今そう思っているのかーと受け入れていたら、行為はモーレツサラリーマンちっくで変わらないように見えても、ガソリンになっているものが違うんですね。なんとなく、ふわっとしている。内側のエネルギーが違えばそれは闘いとか、毒にはならないんじゃないのかしらとも思うんです。

こういう意味で捉えた場合に滅私奉公の滅私は、いじわるな自分の心の声を滅すること。奉公は、それよりもっと大きな自分に尽くすってことじゃないかな。病気になるまで、こう書いている自分も本気でそれを生きてなかったけど…。今はそう思います。

それが仏であり、自分を超えた宇宙であり、命の源であり、本来の自分らしくであり、人間らしく、なんじゃないかなぁと思った昼下がりでした。