嫌いな自分を赦せば、愛が叶う。投影を外し、人間関係のモヤモヤを一掃する心理学。

投影とは? 他人は自分の深層心理を映す鏡。

苦しいことや嫌なことがあったとき、わたしたちにはほぼ無意識のうちに、感じたものや理解したものを抑圧したり、歪解するという心の機能があります。これは心の防衛機制と呼ばれ、現実をありのまま受け入れるとダメージが大きすぎると心が判断したためです。精神科医のフロイトによると、その最たるものは、本当の気持ち(欲求)が表に出てしまわないように、心の奥に封じこめた“抑圧”です。抑圧された想いや願いは、普段はほとんど意識できません。けれども他人と接したときに、自分がその関係性をどう感じているかをじっと観察することで、封じ込められていた自分の欲求に気づくことができます。このように他人を鏡にし、自分の深層心理が映しだされることを、心理学では投影(プロジェクション)といいます。投影を理解することで、人間関係はぐんとラクに、わかりやすくなっていきます。

 

投影において、私たちの現状は目の前のものごとを指すのではなく、ある時点での自分についての感じかたを映したものといえます。その鏡は、認めたくない自分の一面を映すことも、気づかなかった素晴らしい自分を見せてくれることもあります。

 

たとえば恋をしているとき。一緒にいたりその人を想うだけで、心が温かくなったり、生きる喜びに繋がります。そんなふうに「良いなぁ」と思う相手の要素は、もちろんその人のものであるけれど、もっと深い意味では、それは自分の一部なのです。つまり、相手に投影された、自分が持ついちばん素敵な部分を認識しているということ。

 

「あの人って心が広くて素敵だなぁ」「聡明で品がある人だなぁ」と目の前の人を思うのは、そういった要素を自分が持っているから。その人は、キラキラ光るあなたの潜在性をより強く照らしてくれる存在なのです。だから、そう感じることができたときは自分の状態がいいこと、そしてその人と一緒にいると自分の状態がよくなることがわかります。「自分には無いものを持っている」とその人に嫉妬したり、相手と自分と比べて落ち込む必要はありません。だってそれはあなたが持っている潜在性なのですから。

 

一方で、相手をコントロールしたいとか、自分だけのものにしたいといった欲求が出てきた場合。「こうしてほしい」「なんでああじゃないんだ」「自分のほうが正しいと思い知らせたい」と、目の前の相手がありのままに振る舞うことが赦せなくなります。すると面白いぐらいに、関係性もゴタゴタしてきます。

 

問題が生じたときに、「あの人が悪い」と被害者席を陣取ったり、現状から逃げてお菓子をどか食いしたり、マッサージになだれ込んだり、韓流ドラマにどっぷりつかったり。余計なことが考えられないぐらい仕事やプライベートを忙しくしたりするのはたしかに問題解決の第一歩になります。わたしもむしゃくしゃしたときに、クッキーをどか食いして、一袋完食したあとにハッとさせられることが多々あります。

 

ホンネと向き合わないと、問題は形を変えて繰り返される。

けれどもそれは穴のあいた網戸をして、蚊取り線香を焚きながら、虫刺されのかゆみ止めを一生懸命塗るようなもの。本当に必要なのは、網戸の穴を修繕することです。穴があいたままでは、必ずまた壁に打ち当たり、形を変えても同じような問題が同一人物かまた別の人で、もっと大きな形で目の前に現れてきます。

 

こういうときは、自分の心に向き合って相手の何に苛立っているかを突き詰めていくチャンスです。誰かや何かが赦せないのは、実は赦せていない自分があるサインです。つまり、あなたが自分の心の欲求を何らかの形で抑圧して蔑ろにしていることに他ありません。なぜなら他人は、自分が自分に接するのと同じ態度でこちらに接してくるものだからです。

 

そこで必要になるのは、自分でその抑圧された欲求を満たすことです。



では、私たちが赦せない自分とはなんでしょうか? フロイトの時代で極端な形で抑圧されていると考えられたのは、セクシャリティ(性欲)でした。いまの日本でそれは、自分らしく生きることかもしれません。

 

嫌な自分、好きな自分、なりたい自分、すべてが自分の一部。

自分らしさとはどういうことでしょうか?

私たちにはいろんな側面があります。社会で生きていると、認めたい自分とそうではない自分が生まれます。「ズルイ自分」や「暗い自分」は自分だと認めたくありません。

 

でも、たった一つのキャラクターが自分そのものだということは絶対にありません。例えば家ではほぼ喋らない無口な人が、友だちといるときは人が変わったようにはしゃいだりします。空腹か満腹かでも変わりますよね。そのどちらもがその人であるように、ある時点にある部分が一番強く出ているだけで、それがイコールその人のすべてではありません。

 

例えば、「ズルイ自分」もいるし、「ボランティア精神に溢れる自分」もいる。「サボりたい自分」もいるし、「責任感が強い自分」もいる。「愛情深い自分」もある半面、「ドライで自分勝手な自分」もいる。「滅入って気分が上がらない自分」であるときもあるし、「やる気に満ちて前向きな自分」のときもある。「人生に迷っている自分」もいるし、「思い切って踏ん切りをつける自分」もいます。

 

さらに「事務員の自分」もいるし、「教師の自分」も、「レジを打つ自分」、そして「母親の自分」、「1年前に振られた自分」、「息子の自分」という肩書きや社会的な役割をする自分もいます。

 

これはすべてサブパーソナリティーと呼ばれますが、全てがあなたであると同時に、どれか一つだけがあなたの全部だということではありません。

さらに自分では気づいていないような一面や、ハイヤーセルフやトランスパーソナルといわれる高次元の自分も存在します。

ハイヤーセルフと繋がる方法とは? 問題を解決する、自分を超えた答えのダウンロード法

 

どんな自分もあっていいし、バラバラで当たり前。

つまり、ダルメシアン模様のようにいろんな自分が共存して、バラバラであって然るべきなのです。何かを無くそうとか、無理に何かになろうとする必要はありません。そうすると抑圧されたサブパーソナリティーが、他者という形で登場して、あなたをイライラさせたり、本当は認めたいのに認められないホンネを出せずに苦しい思いをしたり。知らずうちに自分に対してやっているのと同じように、相手から雑に扱われたり、ないがしろにされたりすることも。

 

とはいうものの、実は張本人であるわたし自身もずいぶん長い間、嫌な自分の一面を認められず「こうじゃないと」と追い詰められてきました。

 

アメリカで学生に戻ったときは、同級生に比べて歳も取っていたし、ネイティブのみんなのように英語もできないので、トレンドやアートが好きな自分をすべて封印して勉強に打ち込んでいました。貯金を切り崩しながら学費を払っていたし、チャラチャラしているところを見せてはいけないといつも同じデニムとGoodwillで手に入れた5ドルのモカシンにリュック姿。ある日思い切って、編集者時代に通っていたようなオシャレなサードウェイブコーヒー店に入ってゆっくりカプチーノを飲んでみたら、ちょっと後ろめたい気持ちもしたけど、それ以上にとっても幸せな気持ちになったんです。「あぁ、こういう自分もやっぱりあるよなぁ♡」と。

 

禅センターで暮らしていたときは、作務で無理をして腰を傷めたために山を降りようとしたことがありました。それを引き止めてくれたプレジデントに「出来ないことを伝えて、人を頼るのもあなたの修行」と教わりました。

 

「これは重くてもてない」とほかのレジデントにいえたとき。身勝手に見えた人に対して怒る自分のドロドロした気持ちを赦せたとき。実はそんな相手の自由な振る舞いが羨ましかったんだと気づいたとき。自分の“醜い”部分も「自分の一部だ」と少しずつ認めて心が緩んでいくにつれて、彼らともっと繋がれるようになりました。

 

確かに完全を目指すのは美しいことです。でも、不完全で完璧になりきれない美しさというのもあるんです。それこそが完璧な個性ですから。

 

嫌な自分を赦すのに必要なステップ、脱同一化って?

不完全な自分を受け容れるのに必要なのは、モヤモヤしたり、イライラする目の前の出来事や人は自分の内なるドラマの鏡と気づいて、モヤモヤやイライラを感じる今の自分を出来事として観察する、ちょっと緩めた視点です。不完全な自分のありさまをジョークにできるぐらい力みを抜いて見られたら上等です。それは赦しをともなう行為で、相手を非難の対象から解放して赦すというよりもむしろ、自分を犠牲者とみなすことから自由になるという赦しです。

 

ネガティブな気持ちやジャッジをしている自分をまず認めて、でもそれがイコール自分だと一体化させません。「あ、いまわたしの中にイライラがあるな」と気づくけど、「わたし=イライラ」とは捉えないのです。これを心理学では、脱同一化といいます。

 

脱同一化しながらイヤな自分の一部を赦し認めてあげると、次第にほかの誰かにそれを認めてもらいたいという隠れた承認欲求が少しずつ薄れてきます。

 

例えば誰かに花を贈ったとします。それを受け取った相手に「花は枯れるから、化粧品のほうがよかったわ」といわれるとします。それは残念なことだけど、究極的には、贈り物を相手が受け入れようが、相手の出方というのはどうでもいいんです。

 

むしろ大切なのは、あなたが「花を贈りたい」という自分の願いを認めて、「拒絶されることの恐怖」という心の壁を取り払って、ありのままの愛を相手に見せることを自分に赦したこと。だから、なにも失っていないし、損もしていません。自分が願うように振る舞ってくれなかった相手が悪いわけでもありません。相手はその人自身の投影のドラマに従って、その表現をしただけなのです。

 

この出来事から、今度は化粧品を贈ろうと次につながる情報とするのか、もうこの人とは距離を置こうかなとか。どう活かすかを自分で決めたら良いのです。

 

勇気(courage)という英語の語源であるラテン語は、本当のことを話すという意味の言葉だそうです。本当の自分を見せたり、自分から愛を差し出すと、当然傷つきやすい状態になります。「あの人がこういったから」という言い訳もできません。でも「Vulnerability(傷つきやすい状態。無防備さ)」であることは、深い人間関係を築くために必要なことだと社会学者のブレネー・ブラウンはいいます。なにより、ありのままの自分を赦せたという自分自身との深い信頼関係を築くことができます。

 

投影を緩めることで、人間関係を阻む欲求も手放せる。

相手の姿に映る自分を正直な目で見つめ、必要な愛を自分に贈ったうえで、相手に平和を与えようとする。これが逆になって、自分の気持ちを抑圧したまま、相手に認められることだけを優先してしまうと、満たされない心は知らずうちに重たい承認欲求へとつながっていきます。自分では認められない自分の一面を相手に承認されたいという欲求の影には、拒否されることへの恐怖、関係を失うことの怯えだったり嫉妬心などが抑圧されています。これは相手の反応をコントロールしたいという重たいエネルギーでもあります。

 

一方ありのままの自分を赦すことで、相手がありのままふるまうことも次第に受け容れられるようになります。それに伴って、自然に相手を想うような関係性を育み、互いのエネルギーも軽やかになっていきます。

 

サンフランシスコに有名な禅センターを設立した鈴木俊隆老師は、その著書『禅マインド、ビギナーズマインド』で人間関係におけるこんな逆説的な公式を語っています。

 

人をコントロールするいちばんよい方法は、存分にふざけてもいいんだよと言ってやることだ。そう言われた人は、広い意味でコントロールされた状態になる。羊や牛をコントロールするには広々とした牧場に放してやればいいが、それと同じことだ」(1)。

 

誰だって、抑圧されたりジャッジされず、ありのままでいたいのです。だから、そうしてくれる相手のことは自然と大切にしたくなります。

 

別の例では、「自分がなにがしたいのかわからない」という悩みもまた、大抵の場合、ネガティブな自分を抑圧し、認めていないために起きています。そこでは「なにをしたら(ほかの人に)OKを出してもらえるんだろう?」という承認欲求に覆われて純粋な欲求が見えなくなっているのです。

 

自分にはマイナスの一面もプラスの一面もある。まだら模様であるところの自分を腑に落としていくほど、生きるのがラクになってきます。そこでは、もう自分以外の人になる必要がないからです。

 

抑圧を手放し、投影というプロジェクターから目を外し、「わたしは本当にこの人をこう見たいのだろうか?」と問い直す。そうひと呼吸いれることで、相手と本当につながる形でホンネを表せたり、目の前の関係性を新しく創造する力を手に入れられます。

そしてその先に広がる景色は、人間関係のモヤモヤが一掃された、この世界でいちばん大切な、自分自身との愛ある関係性です。

 

参考

1. ナタリー・ゴールドバーグ著、小谷啓子訳『魂の文章術』(春秋社、新装版2006年)

デヴィッド・R・ホーキンズ著、エハン・デラヴィ&愛知ソニア訳 『パワーか、フォースか』(ナチュラルスピリット、2018年)

平松園枝著 『サイコシンセンスとは何か』(トランスビュー、2011年)

平松園枝著 『好きな自分 嫌いな自分 本当の自分』(大和出版、2001年)