亡き父を偲んで。闘病と臨終に立ち合い、父から教わった生と死について。

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1年半の抗がん剤治療を経て、2022年1月13日に父が旅立ちました。家族全員で見守るなか、安らかな最期でした。人はいつか死ぬ。では、どう生きる? 亡き父から学んだ、命や関係性の奥深い冒険について、少しお話ししたいと思います。

亡き父を偲んで。闘病と臨終に立ち合い、父から教わったこと。

いつも冗談半分で自由人なお父さん。

頭の回転が早くて、面白い。でも際どい冗談を言うので誤解されやすく、危なっかしくもある。大好きな父は、ちょっと「変わったお父さん」で、「とても心が自由な人」でした。

私が小学生だったとある日。父が母のコスメで、愛犬に化粧をしていました。往年の映画が好きな父は、女優グレタ・ガルボ風のメイクを、ポメラニアンとマルチーズの雑種・タクちゃんに施していたのです。

その後一緒に散歩したら「心なしか恥ずかしそうだった」と首を傾げる父。「ブルーのアイシャドウがすごく減っているー!」と叫ぶ母。

また、兄と私に「向こうの景色が透けて見えるまで食べられたら、五百円あげる」と、
メロンの皮を限界の薄さまで食べるという競争をさせたりも…(皮に穴が空いたら終了ということで、兄も私も賞金獲得ならず)。いつもそんな調子で、父親然とすることはありませんでした。

高校生では、家に遊びにきた私の友だちを父の運転で送迎する途中、「BGMを」と父が流したのは、自分が弾くギター曲の録音。アムラーだった私たちは、父の心許ない指さばきで物悲しさがさらに募る『アルハンブラ』を聴き続けることに。

渡米中は、父の難題に立ち往生する。

そんな一見冗談半分のように生きる父の印象が変わったのは、私が14年半勤めた会社を辞めて、アメリカに行くと突然言い出したときのこと。アメリカで博士号を取得した父はこう言いました。

アメリカでは、むちゃくちゃ勉強した。
でも一番学んだのは、人の素晴らしさは、英語が上手いとか下手とか、
学歴やお金のあるなし、社会的立場や性別、年齢や人種の違いとは一切関係ないということ。
それらを超える世界がある。
だからどうせ行くなら、その世界を見てきなさい。
見られないなら、留学する意味も、アメリカに行く意味もない。

そして、こう続けました。

何かを選ぶと、他の可能性は捨てることになる。だから前に進んだら、選ばなかったもののことは、もう考えるな。

父は学生時代にお金で苦労したから、奔放に見えて、人一倍堅実で計画的。自分よりも、人にお金を使うことを好みました。そして、よくおしゃべりする人だったけど、父の愛情表現は、言葉より行動。私に厳しい言葉をかけつつも、父は毎日せっせと私が託した愛猫のトイレの世話をしてくれていました。

一方で娘の私は、サンフランシスコの濃霧ですべてを超える世界を見るどころか前方すら見えず、立ち往生するばかり。そのときに届いた一通のメール。「猫の誕生日をお祝いしました」と、父の手書きの表彰状と刺身を贈呈された猫の写真が添付されていました。

参考:ありのままの自分で本当に幸せになれるの? マガジンハウスからホームレス編集者へ。アメリカ先住民ナバホ族の集落で死にかけて学べた私の幸福学

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父との闘病で、一番辛くて泣いたこと。

私は、父に与えてもらったような愛を、父にお返しできませんでした。この一年半ほど、父と一緒に闘病しました。再発がわかったり、父がほとんど立てなくなったりしてからの日々は、特につらいものでした。

でも一番泣いたのは、人に迷惑をかけることを嫌い、負けず嫌いな父の下の世話をすることでも、明け方に強い痛みを訴える背中を必死にさすり続けることでも、昨日は立ち上がれたのに今日は無理という、父の葛藤を見つめ続けることでもありませんでした。

もっともつらかったのは、自分の小ささと向き合うことでした。

「父の役に立つ娘でありたい」「彩は正しいと認めてもらいたい」と、「支えよう」「与えよう」としているのに、いまだに父の愛と承認を求めてしまう自分の身勝手さ。

あれだけ修行しても、心理学について学んでもダメなのか…と。未熟な自分の一面と、目の前でどんどん衰弱していく父から逃げずに向き合い続けるという日々は、心がえぐられるようでした。

そんな深い冒険をさせてくれるほど、父の愛は大きかったのです。

クリスマスの日に、母と兄と協力して、父の一時退院が叶いました。「奇跡やわ!」と感激した父は、その日についての日記を書き、見せてくれました。そして日記帳最後の日付は、12月29日。

その日、父は訪問看護師さんにこう話していました。

元気になったら、みんなにお礼の料理をしたい。まずは親子丼かな。
病室でレシピをたくさん見て勉強したから、完璧に作れると思う。
それが一番役に立つわ、自分の運動にもなるし。
下手なゴルフをやっている場合じゃない。金ばっかり使うしね。

父が使っていたのは、2022年度始まりの5年日記帳。闘病中の彼が「まずは80歳を目標にしたい」と、駅前の書店で買ったものです。その日記帳は、まだ4年分残っています。

生死の境をさまよった父からの遺言。

そして大晦日。激しい痛みを抱えて、父は担架で再入院しました。もう話せないだろうと、その夜は号泣しました。でも、翌日の元旦。呂律がまわらず、しゃがれ声の父から電話がかかってきたんです!

すごい体験やったわ!天国と地獄を同時に両方いっぺんに味わうようやった。区別性がなくて同時。それから、時間の流れかたも通常とはまったく違う。壮絶で、今まで生きてきたこと全部と同じか、それ以上にすごく価値がある体験やった。30万円払ってもいいぐらい
(一生の体験で、30万円って安くない?と突っ込みそうになりましたが…)。

死んだ人たちは、みんな、本当にすごいわ……。すごい体験やわぁ。

体験したから、最期にこれだけは伝えておこうと思って。参考にしてください。これまで何もわかっていなかった。──もう二人に、何もお返しできへん……

と父。

参考:プルシャとプラクリティ

「ただ生きているだけでいい」と伝えると、父が「ありがとう」と言いました。そして母と「ありがとう」と父に伝えました。最高のお年玉でした。

そして亡くなる3日前。口では話せなくなった父が書いた、最後の言葉です。「彩は正しい。私は正しい」

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モルヒネでせん妄が少しずつ出てきて、達筆だった文字は、見る影もありません。彩の字はもう正しく書けず、のぎへんに采という字になっていました。

というのも、なんどか闘病中の父と言い合いになってしまったんです。そして「いつもお父さんが正しくて、私は間違っているのね!男じゃないから(介護中に父を)持ち上げる力も弱いし」と、捨て台詞を吐いた私…(最悪です)。

そんなこともあったから、父は命がけの仲直りの言葉を届けてくれたのでしょう。で、自分も正しいと締めるところが、父らしい。

参考:次元上昇と、未来のなりたい自分と繋がるために必要な「許し」について

最後の最後まで、すべて聞こえ、意識もある。

1月13日、旅立ちの日。家族全員がそろうまで、父は待ってくれました。「お父さーん!」と耳元で叫ぶと、薄目だった父の目が少し開きました。

「あ、目が開いた!お父さん、すごい!」と言うと、いつもの冗談めかした調子で、市川團十郎の睨みのように父が目玉をギョロギョロとさせました。私は泣きながら爆笑し「お父さん、やっぱりすごい!最期まで面白くてお父さんすごい!」と言ったら、父の口元が少し微笑んで、またギョロギョロ。

臨終の間際は肉体では自由に表現できない。けれども、父はすべて聴こえているし、わかっている。

それを教えてくれたのです。

多様性の時代を軽やかに生きる。

彩は正しい。私は正しい。それは言い換えれば、君は君。我は我也。されど仲よき、ということ。私が高校生の頃の卒業文集に一番感銘を受けた言葉として書いた武者小路実篤の言葉であり、それぞれの人がその人らしく在れるようにと、父が生きた哲学です。

彼がアメリカ留学時代に愛し、闘病中も病室でカラオケしていた曲、フランク・シナトラの『My Way』。その歌詞のように、最期まで自分の生き方を立派に貫いた人でした。


お父さんの娘に生まれて、楽しかったし、幸せでした。本当にありがとう。このブログを読んでくださっている皆さんや、私たちを見守ってくださいね。

そして亡くなったおじいちゃんやおばあちゃん、おじさんやおばさんたちとさらに笑って過ごしてね。

私も前を向いて、お父さんのようにMy Wayを堂々と歩きたいけど、やっぱりお父さんがいないと、ものすごく哀しくて、寂しいです。