自分本位は自分勝手じゃない。素敵にありのまま生きるための5つの方法。

selfish

このところ読んでいたトマス・J・レナードのSELFISH(セルフィッシュ) 。著者はパーソナル・コーチングの父と呼ばれた人で、本書は1989年に出版されたベストセラー『THE PORTABLE COACH』の完全邦訳です。そのなかの「ありのまま、人間らしくいるための方法」の10項目から特に深く納得した5つをピックアップし、解説します。自分の心に留める意味でもみなさんに共有します。

本のタイトルにも使われているセルフィッシュ(selfish)という英語の言葉。日本語でいうと“自己チュー”。いい意味じゃないですよね。

そこで面白いタイトルの本だなーと思わず手にとって読んでみました。日本語のサブタイトルには、「真の「自分本位」を知れば、人生のあらゆる成功が手に入る」とあります。

レナード氏はまえがきでもプライベートと仕事の両方で成功したいと思うなら、「セルフィッシュ」という言葉に対する新しい見方を身につけなければいけないとズバリ。

彼が生まれ育ったのは、アメリカ。私も5年弱ほど暮らしていたことがありますが、個人主義が重んじられるアメリカでさえも“セルフィッシュね”と言う言葉には、“自分勝手ね”とか“わがままね”とか無神経なイメージがつき、良い意味にはほとんどとられなかったです。実際に、当時付き合っていた人に“それってちょっと(周りの人のことを考えすぎず)セルフィッシュなんじゃない?”といったら、怒られてしまったこともあります。

それはさておき。

彼はセルフィッシュな人は主体的な選択をしていると定義します。主体的とは、自分の意志や判断に基づき、責任を持って行動すること。同時に、自分の行動の結果にも責任を負うことができる、という意味があります。

自分本位とも訳されます。

これに対して自己中心的とは、自分のことしか考えていないこと。無神経は、心配りが欠けていて、やはり他の人のことをまったく考えていないことをいいます。

でも思いっきりセルフィッシュでいても、自己中心的にも無神経にもならずにいれるんだと、レナード氏は断言します。

つまり自分本位でいても、自分勝手にならないことができるのだと。

なぜなら主体的な選択をするセルフィッシュと、いつも何かが満たされていないという気持ちに自分で振り回されている(結果まわりのことも振り回す)のは違うからと。

そこでまずは自分のコップを満たすことに専念して、無理をしない範囲で他の人を助ける基盤をつくること。それを否定する人は、エネルギーを吸い取る人として距離を置いていいといいます。

つまり他の人の期待に応えようとするのではなく、自分の期待に応えるということ。それと同じように、自分も他の人に期待するのをやめます。

ちょっと冷たい感じにも聞こえますよね。

でも、それはお互いに自由に創造性を発揮することを許すということ。ベースには愛があります。

しかし、となると無理して尽くすことで成立していた関係性が終わってしまうことがあります。

「冷たい」とか「変わってしまった」とか「前のほうがいい」と言われてしまうかもしれません。

確かにその人にとって「犠牲的までに尽くしてくれなくなったあなた」は冷たいです。

でも、どうして苦しい思いをしながらもその関係性に尽くしていたのでしょうか。
さらにいえば、なぜ苦しい思いをしなければ、成立しない関係性なのでしょうか。

心から尽くしたいと思ってそれがエネルギーになっていれば、苦しくはなかったはず。

そして、なぜそのような関係性を維持しなければいけないのでしょうか。

ためしに相手に一度「ノー」を言ってみます。

あなたがその人を受け入れてきたように、苦しくて耐えきれなくて「ノー」を言った場合に、その人はそんなあなたのことを受け入れてくれますか?

「ノー」を言わないという前提条件に限って、受け入れてくれていたのではないでしょうか。

それはギリギリまで頑張ってきたあなたで、本当の自分ではないです。心は傷ついています。

では、なぜその関係性を必要としてきたのでしょうか。

そこでもなにかが満たされていたはずです。

苦しくてもその人に尽くして感謝されると、「自分はここに居てもいい」と思えるから。

でもそこに対等な関係性はあったのでしょうか。

それでも満たされているはずなら、どうして苦しいのでしょうか。

それでもその関係から得てきたものがあります。

その人は「ありのままの自分では価値がない」という自分の思い込みを「そうだ」「それが正しい」と強化してくれていたのではないでしょうか。

でもそんなことは無いんです。

あなたには苦しいことは苦しいと言ってもいいし、嬉しいことは嬉しいと喜びをあらわしてもいい。

価値があるんです。

レナード氏の素敵な言葉があります。

もし、自分は何者でもないが、本来は何者かであるべきなのではないか、と思っているなら、何者でもない自分に誇りを持とう。

―中略―

自分の中にはとても特別で価値のある「誰か」がいて、誰もそれをコピーすることはできないのだと自信を持とう。

SELFISH(セルフィッシュ) 』より

私自身もっともっとと自分を追い込んできた張本人ですが、自分以外の誰かになろうとするのは非常にストレスです。それは強い言葉でいえば、自己虐待です。

参考:風の時代へ。冬至の心の毒だし、バシャールの現実創造で何が起こる? 突然顔面マヒに、ラムゼイハント症で緊急入院した話。

「心からやりたいことがわからない」というご相談を受けることがあります。

お話を伺っているとそんな方は、基本的に良い人、先まわりして気遣える優しい方が多いです。他の人の心を察せることで、無理な頼まれごとも断れずに自分を追い込んだり、相手の都合に合わせて犠牲的になったりと、周りの気分や相手の言動を自分よりも優先しがちです。

心からその人のことを想って行動していたのであれば、満たされていたはずです。

心がわからなくなっているということは、ホンネに従って行動していなかったということ。

自分の心を大事にできていなかったということです。

自覚なく他人に受け入れてもらうためにカメレオンのように七変化を繰り返していたら、

自分のことがよくわからなくなっても仕方ありません。




自分のことを大事に扱うことで、エネルギーの目盛りが再び少しずつ増えていきます。

エネルギーが回復してくると、やる気も出てきて、やりたいことも少しずつ見えてきます。

心理学でも人が幸せになるのは、「自己選択権」を持ったときだとも言われます。

与える力も回復し、自分を大事にすることで、どんな形で誰になにを贈れば、エネルギーが枯渇せずに循環し続けるのかという焦点も見えてきます。

レナード氏が本書で「ありのまま、人間らしくいるための方法」を10項目挙げていました。そこから特に心に響いたものを5つに絞って、解説とともに抜粋します。

1. 見せかけの自分に別れを告げ、他の人になろうとするのをやめる

太っていて脇汗がすごいなら、そう言おう。

負け犬なら、そう言おう。

嫌なことは嫌だと、言おう。

勇気(courage)という英語の語源であるラテン語は、本当のことを話すという意味の言葉です。

本当の自分を見せると無防備で傷つきやすい状態になります。語源から、それができる人が勇気のある人、パワーのある人だと思われてきたことがわかります。

自分に出来ないことがあるおかげで、周りのひとの優しさに気づけますし、感謝もできます。また自分の非を心から認めて謝ることが出来る人には、相手の心を開くパワーがあります。

欠点は乗り越えようと思えばそうできるものもあるし、心からそうしたいならそうすればいいです。

でも、欠点を誰かに満たしてもらおう、認めてもらおうと、いつも「何かが満たされていない」という気持ちに自分で振り回されていたら、あなたという命の輝きが曇ってしまう。

例えば、渡辺直美さん。彼女は、脇汗をかくぐらい汗っかきとあって、ウォータープルーフのCEFINE セフィーヌ のファンデーション を愛用されているとか。シルクの粒子でメイクが汗で崩れず、肌に優しいのだそうです。

参考:自己開示と自虐の違いって?「ダメな自分」を見せてもステキな人にはワケがある。

汗っかきだからファンデーションが崩れないように「痩せないと」と自分を変えない。自分の特性をそのままに魅力を引き出すように商品を選ばれているんですね。

あくまでも自分ありきで、ものを選んでいる。ものに合うように自分を寄せていないのです。

その根底にあるのは、どんな自分でもその存在が尊いとする圧倒的な自己受容です。彼女がインフルエンサーであるというのは、そんな彼女の姿に私たちは本来の自分の在り方をみて憧れるのではないでしょうか。

それは人によってカーヴィングされた人間ではなくて、自然からの純粋さの結晶でできたような深さと温かさ、優しさと、人間らしい不完全さが同居した唯一無二の美しさ。

自分以外の人に啓発されて、インスピレーションを得ることは素敵なことです。でも私たちが惹かれているのは、その人という命の輝き。

再び本文のレナード氏の言葉をマントラのように。

もし、自分は何者でもないが、本来は何者かであるべきなのではないか、と思っているなら、何者でもない自分に誇りを持とう。

―中略―

自分の中にはとても特別で価値のある「誰か」がいて、誰もそれをコピーすることはできないのだと自信を持とう。

SELFISH(セルフィッシュ) 』より

2. スピリチュアルになろうとしすぎない

むー、深い。

スピリチュアルな教えを学んで実践しようとすると、「エゴを無くす」というジレンマに行き着きます。心理学でもフロイトなんかを知ると、エゴに振り回されることがいかに自滅的なのかと、それを避けねばという気持ちになります。

「無くそう」→「無くそう」→「無くさねば」→「無くすべき」→「無くせないのはダメ!」

でも「エゴを無くすこと」にとらわれすぎると、独りよがりになって、重たい空気をまといます。これは、私自身に対して言い聞かせているところでもあります。

スピリチュアルにハマると、頭でっかちになってしまうってことがあるから。

アメリカで利他主義(他の人に親切であること)について研究する心理学者たちに学んだり、禅センターやスピリチュアルセンターで暮らしたりして思ったことは

(自分自身もふくめて)スピリチュアルさを求めるあまり、逆にスピリチュアルから遠ざかってしまうこともあるんだなということ。

西に行こう行こうとして、ケータイナビを見てみたら東にずんずん進んでいたといったような…。

参考:ありのままの自分で本当に幸せになれるの? マガジンハウスからホームレス編集者へ。アメリカ先住民ナバホ族の集落で死にかけて学べた私の幸福学。

たとえば、トップが絶対的な力をもって周りを支配するというのはスピリチュアルではないと憤っている人が、自分よりも立場が弱い人は意見を聞かずに約束を破り、思うがまま進めていたりすることもある。

と思えば、表面的にはトップダウンという会社組織。でも交わした契約をきちんと法定順守してくれる人たちとは余計な心配がなく対等な関係が持てます。不安なくお互いに高いサービスを追求することに専念できます。

あるとき、「スピリチュアルを自負する人たちよりも、どれだけ修行やスピリチュアルな学びを深めているのかと主張する人よりも、全くスピリチュアルなんて興味なさそうだった会社の上司のほうがずっとスピリチュアルだったのでは…。約束もちゃんと守ってくれたし、求めるものをクリアにしあい、お互いの存在を尊重し合える関係性を育んでくださったのでは?」と気づいて愕然としました。

自分自身も気をつけないといけないなーと。

エゴを必要以上に怖がったり、嫌ったりする必要はありません。

これが好きだとか、嫌いだとか。こうしたいとか、したくないとか。

その感覚が紛れもない「あなた」という何ものにも代えられないユニークさで、

私たちの存在理由なわけだし、その感覚を極めることでサービスや商品も生まれます。

私という分離感を持たないのであれば、そもそも大いなる源(ワンネス)から分かれる必要はなかったわけだし。

スピリチュアルであろうと頭でっかちになって「これがダメ」で「これが良い」と自分に課したり、自分だけじゃなくて他の人にも「そう振る舞いなさい」と強要したりと分離しながら「分離はダメなんだ」というのは、重たい空気をまとっています。

作家のG.K.チェスタトンは、「天使は自分を軽く考えているから飛べる」と素敵な言葉を残しました。

軽く考えているというのは、軽視しているということではありません。

いうなれば老荘思想の「無為自然」作為がなく、宇宙のありかたに従って自然のままであるということ。

赤ちゃんや動物たちをみて微笑んでしまうのは、そんなふうに自然でエネルギーが軽いからでしょう。感じたままに従っているからでしょう。

レナード氏は、スピリチュアルさとは、つながっていることと軽やかであることの二つと言います。そして、生きること自体が十分スピリチュアルなことだと。

それで自分自身や人生を笑い飛ばせるぐらいになると、素晴らしい。

するとどんなに不条理なものに対しても、柔軟に対応できるようになるからと。

ウディ・アレンの映画『カフェ・ソサエティ』にもそんなセリフがありました。

「人生なんて喜劇だよ。サディストの喜劇作家に書かれたね(Life is a comedy written by a sadistic comedy writer)」と。

人生に起きる葛藤や悲劇すら喜劇と見るような、自分という主人公に対するフラットな視点。口が達者でちょっとズルいけど、いつも面倒なことに巻き込まれてしまうユダヤ人の自分について面白おかしく描けるのは、自分のことを良いところもダメなところも客観的に観察できるからでしょう。

参考:心の暗さや魂の不健全さを自己実現や創造性に変える、心理学の”昇華”とは?

嫌な感情やそう感じさせる存在や自分の一面を認めてしっかり感じるけど、それらにのみこまれない。

参考:自然なあなたが一番美しい。ドス黒い感情やダメな視点にも価値がある! 不安、怒りを「書いて」陽転させる方法。

ときに失敗したり、ズッコケたりもする、ありのままでいることを楽しみましょう。



3. 無理やりポジティブにならない。

自分の人生を笑い飛ばすとはいっても、無理やりポジティブになるというのとは違います。

良い面だけを見ようとすると見たいものだけを見る姿勢が身につき、世界とも自分ともホンネでつながることができません。

たとえば「大丈夫」と痛みや疲れという違和感を受け流して、大きな病気になってしまうこともあります(何を隠そう私のこと)。どう考えても破綻しているもの、心が嫌だと叫んでいることをそうだと認めないことも、建設的ではありません。

とはいえものごとの悪い面に囚われてしまうと、行動もとれません。

ヴィパッサナーとは、ありのまま観察すること。

ヴィパッサナー瞑想を広めたS.N.ゴエンカ氏。彼は正しいヴィパッサナーについて、転んでしまいお使いの油の瓶を半分にした男の子のたとえ話を用いて説明しています。

悪い面だけを見る子は、「半分しかない」と大泣きするばかりです。

良い面だけを見る子は、「半分もある」とニコニコ笑顔です。

では、ものごとをありのまま見られる(ヴィパッサナー)子はどうでしょう?

「半分はある。でも半分ではお母さんが困る。小遣いを稼いで、もう一度油を買いに行こう」となります。

レナード氏からの解決策は、

もし何かが悪いと思ったら、そう言おう。本来の姿よりもマシに見せようなどとしてはいけない。それはもはや、嘘である。

4. 純粋でも本物でもない人を避ける

ドキッとする言葉が続きますね。

純粋とか本物とかというのは、その人が偉い人だとか社会的に認められている人だとか聖人だとか、ブランドがあるとかという話ではありません。

レナード氏の言葉をお借りすると、

自分を印象付けようとしたり、何かを補おうとして必死になっている人ではなく、

本物のその人らしく、純粋に生きている人

ということ。

むむむむむ、深い…。

そんな人は自分で自分を満たしているので、あなたからエネルギーを奪おうとはしません。

話したり会った後にはエネルギーが高まったり、心地よい気分になれます。軽やかです。

つまり純粋であり本物であるとは外側の情報をいうのではありません。あなたがそう感じられる人が、あなたにとって純粋で本物な人です。

参考:ハイヤーセルフと繋がる方法とは? 問題を解決する、自分を超えた答えのダウンロード法

そして避けるべきは、エネルギーが奪われるような人。

レナード氏いわく、そんな人たちと自然に距離を置くうちに、連絡先リストがどんどん減っていっても驚かないようにとアドバイス。世界が小さくなっていっている訳ではなく、不要なものが取り除かれていっているだけだそうです。

参考:エネルギーバンパイアとは? 有害な人間関係からメンタルを守り、冷静でラクに生きるコツ

一人の時期も生まれるでしょう。

そこで大切なのは、「私はあなたを決して見捨てない」と自分との愛ある関係性を深く育み続けることです。

そして、新しい仲間を見つければいいんです。

参考:ハイヤーセルフの眼差し、あなたと私の集合的無意識を同時に癒す「セルフ・コンパッション」の力とは?

5. ただの人間という自分に責任を持つ

マイナスもプラスもあるただの人間という自分を受け入れて楽しもうというのがレナード氏のアドバイス。

そのうえで自分がどれほど他の人に影響を与え、必要な変化をもたらしているかを考えようといいます。

つまり、自分の失敗で他の人に迷惑をかけてしまったときは、「これがありのままの自分だから」というのはなんの言い訳にもならないということ。

この点は結構厳しく、キッパリ。

失敗を犯すのと同時に、より素晴らしいものに成長していくことができる存在であると自分はもちろん、他の人のことも認めること。

そして、ありのままの自分に責任を持ったとき、真の「自分本位」を生きることになる。

犠牲者でもなく傍観者でもなく、人生を自分の手に取り戻せるのです。