父の抗がん剤治療が始まった。

父が先月末から入院して抗がん剤治療しています。

治るのが難しいタイプのもののようで、1か月以上いろいろな検査を受けてそれがわかった先月半ばは、家族全員、気持ちがふさいでしまいました。

肉体は永遠ではないこと、それはすべての人にとっての宿命であること。私たちが出来ることは、今ここを大切にすること。それらを頭でわかっていても、目の前に突きつけられた衝撃はいつも何度それを繰り返しても、それぞれに違って、薄れません。

やはり、辛いですね。

ヒーリングやマインドフルネスをするからといって、人生に試練や悩みが無くなるわけではありません。けれども呼吸の観察ができると、強い感情も感じるのをゆるして、受けとめられるようになります。そして感情にのまれず、それを味方にする形で、いまの自分にとってなにを選んでどう行動することが最善なのかも見えてきます。

昨日、1回目の抗がん剤クールを終えて退院した父。

「家はやっぱりえぇなぁー。全然違うわ〜」とひと回り小さくなった笑顔の父は、今後は体調を見つつ通院で治療を続ける予定です。私も顔面マヒのリハビリで同じ病院に通うことになりました。

入院前の父は「かわいい看護師さんがいたらいいなぁ〜」とはしゃいで私たちを笑わせ、昨日も退院前に、毎日病室を掃除してくださったというフィリピン人スタッフさんと談笑し、お礼のお手紙を書いて渡していました。

治療で髪が抜け始めたので、枕にたくさんはりついた髪の毛を掃除しながら「これが砂金やったらええのになぁ。だったら、みんな『ちょうだい、ちょうだい』って群がるやろうなぁ」とユーモアたっぷりに言う父。

母にとって父との時間は、生まれ育った両親との時間よりも、私たち子どもと過ごしたひとときよりもずっと長いです。私にとっては50年という長い時間を連れ添ったというのがただただすごいなぁと思います。だって半世紀ですよ! しかも、もともと他人なんですよね、夫婦って。

母がいうには、いろいろあっても時間を経て体験できる関係性というのがあるんだそうです。そういう話をカウンセリングをお受けするときにお話ししたいけど、科学的根拠に裏付けされているわけでも私自身が体験していることでもないので軽はずみにお伝えできず、歯がゆいです。




帰省すると、二人はだいたい言い合いをしているので、「大丈夫かなぁ〜」と思うこともありました。けれどお互いの病気や苦楽を渡り歩いて支え合った相棒どうしであることは間違いありません。

そこで父の病気に対する母の悲しみは深く、その心が体に作用し、この2か月ほど熱が続いて食事があまりとれません。

母は、昨年の秋に伯父を病気で失い、家族ぐるみで付き合っていた大切な友人のダンナさんも同時期に亡くなりました。コントロールができない死に遭遇し続けています。

責任感が強い母は、それを悲しいと受け止められません。人に「助けて」と言えません。「あの人のほうが辛いんだから、頑張らないと」となります。優しい、いい人ですよね。

しかしよくよく考えてみれば、悲しいとか、辛いとか、苦しいという実感は他の人のものでもありません。あの人のほうが悲しみが大きいとか深いとか、私のは大したことないとかと思わず、受け止めて大事にして欲しいです。思いや感覚を人と比べることはできません。また、他の人に代わりに感じてもらうこともできません。だから、悲しんでいいのです。あなたがそうしないかぎり、現れたそれは封じ込められたままです。泣いて、立ち止まってもいいんです。

参考:HSPってなに? 人の気持ちを感じ取れる良い人、敏感な方が心を守るための“呼吸バリア”の作り方。

周りがそれをどれだけ許しても、自分が許さないとできません。ヒーリングやカウンセリングと同じです。癒しは、ヒーラーやカウンセラーがするのではなく、ヒーラーやカウンセラーを通して起こります。最終的には、クライアント自身がそうすると決めて自分を癒しているのです。癒しはサポートできても、周りが強制したり、コントロールしたりすることはできません。そのようにはいかないのです。

体からのストップサインは、紛れもない心の声です。頭で心を封じ込めることができる人は、やがて原因不明の食欲不振だったり熱だったりと、心の声がなんらかの形で体に現れます。気持ちを感じる自分を許すまで、立ち止まらざるを得ない状況を無意識が体を作用して導くのです。そして生身の人間であることに気づかされるのです。

そんな体と心の深い関係性を探究するソマティック心理学という分野もあります。

参考:病気が贈ってくれた、ホリスティックの真の意味とそのギフトについて

悲しみを感じてもいい、ストップしてもいいということに戻ります。親が子どもの幸せを思うように、子どもも親に幸せでいてもらいたいのです。いろんな方のお話を伺いながら、また自分の実感としても、どんな壊れた関係性であったとしても、どんな子どもも深い部分ではそう思っているのだと思います。

前世を記憶する日本の子どもたち』の著者で産婦人科医の池川明先生もそう語ります。

赤ちゃんたちはみな受胎する前に、自分に必要な学びを与え、魂を成長させるために最適な親や設定を選んで生まれてくるそうです。そんな前世記憶を持つ子どもたちは例外なく口を揃えて「お父さんやお母さんを幸せにするために」生まれてきたと言うのだそうです。

親が苦しんでいるところを見るのは、子どもにとって辛いことなのです。とはいえ、決して我慢して子どもに苦しむ姿を見せるな、ということではありません。

子どもとしては、親に自然な喜びを感じてもらいたいのだと思います。

泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑える心がないとそれができません。苦しいときは苦しくて当たり前なんです。そんな自分の自然な反応を罰することで、苦しんでもらいたくないのです。

わたし自身、昔は、父や母と自分は考え方や感じ方が違うのかなぁと思っていたふしもありました。でも今は、ふたりを見ると自分のことがよくわかります。父の姿からも母の姿から、自分がよく見えます。

父は母に元気になってもらいたくて、母も父に元気になってもらいたい。それもよくわかります。

はたから見ると、その思いがお互いのニーズにハマっていないなぁと思うこともあるけど、大前提として、そんなふうに思い合えることがすごいことですよね。絶望のなかにいるようでも、根本として、そんな関係性を一生懸命育んできたふたりは幸せなんじゃないかなと思うんです。

とはいえ、ふたりが「愛している」と言いあったり、スキンシップしたりしているところは見たことがありません。それでも、お互いの愛情がとても深いのが伝わってきます。パートナーシップの凄さを感じます。ドラマや映画の愛とは、また違うのです。穏やかな愛があるからこそ、それが失われることを思って身を切られるように悲しいのだと思いますが…。

この肉体という命には限りがあって、人は必ず老いて病気して、今まで当たり前に出来ていたこともできなくなっていって、大切なひとを失って、いろんなことも忘れて、やがて死んでいきます。

仏教の一切皆苦(この世界のすべてが苦しみである)です。

絶望的なことだと感じますが、オギャーと生まれてやがて必ず死ぬという短い時間のなかで、自分ではない人への深い思いやりを一瞬でも体験できたり、そんな人たちの様子をはたで目撃出来たりすることは、本当に美しいことです。生きているんだなぁと思います。

13世紀の禅僧 道元は、永平寺を開いたお坊さんです。

彼は、大いなる全体のすべては瞬間の連続に過ぎない。そして、それがすべてだといいます。

今の状態が明日も明後日も当たり前のように続くような気がして、相手に腹が立ったり、頼まれごとをめんどくさいなーと思ったりなんかして、すぐそれをうっかり忘れてしまいます。

でも、そうじゃない。

自分の心を感じながら、周りの心を感じながら、今の時間を大事にしたいと思います。