ドス黒い感情やダメな視点にも価値がある! 不安、怒りを「書いて」陽転させる方法

本当の美は生まれるもので、つくり出すものではない―柳宗理(インダストリアルデザイナー)

幼いころの私にとって、書くことは喜びでした。大好きな祖母や母に手紙や絵本を書いて読み聞かせることは、ウキウキして楽しいことでした。しかし、それに5段階評価で成績がついて、部数や読了数で良し悪しを評価されるにつれ、うまく書かないと、たくさんの人に読まれないと、書いたメッセージ通りに生きないと意味がない、とプレッシャーを感じるようになりました。でも、ある出合いが、書くことを評価の手段にする必要はない。私たちは存在するだけで尊い価値があり、究極的には、書くことで洗われ、昇華されるそのエネルギーを世界にシェアすることにこそ意味があるのだと気づかせてくれたのです。

私がアメリカの禅センターで暮らしていた頃、作家のナタリー・ゴールドバーグが毎朝座禅に来ていました。彼女は世界12言語で翻訳・出版されたミリオンセラー文章術本の作者で、全米一のクリエイティブ・ライティング講座を開いています。

ナタリーによれば、書くために必要なこととは、実際に書くこと自分を信頼すること自分の本当の欲求に気づくことの3つ。それはテクニックというよりもむしろ、「書くこと」を通じた、自分の心と人生を全面的に受け容れる在り方と言えるでしょう。

つまり自然な自分でいること。

いい文章を書こうと力んだり、誰かの正解に自分を無理に当てはめたりするのではなく、ただリラックスして自分の内側から言葉があふれていくプロセスに身を委ねればいいと言うのです。

五感で見たり聞いたり味わった自分の感じ方や目線が、人と違っていてもいい。むしろそのほうが自然で力強い。「こう感じるべき」「こう思うべき」とエゴが望む自己像とは必ずしも一致しない、むき出しの心を書いて晒していい。そうすることで、エゴが制限する思考を超えた、創造のエネルギーそのものというあなたの本質とつながれるからと。

その哲学は、メジャー誌の編集者として「たくさんの人に読まれるように、このテーマが正解、あれは不正解」「この書き方は正解、あれは不正解」と研鑽を積んできた私にとって、ただただ衝撃的でした。

私が思うに、その心の叫びを映すような書き方の第一歩は、「どんなドス黒い思いやダメな視点もあっていい」と許し、胸の内をありのまま書き表すことから始まります。言い換えればそれは、自分に正直になること。

ライターを辞めようと考えていたときに出合ったナタリーの本。

アメリカで書き続けた日記帳。般若心経を写経した表紙も。

さて、私がそんなナタリーの文章哲学と出合ったのは、禅堂の廊下で実際に彼女と対面する数か月前のことでした。

私は禅センターに来る前に、アメリカ先住民ナバホ族の集落で暮らしていたのですが、そこで自分が書いてきた記事のメッセージと実際の行動がちぐはぐな現実をグサッと突きつけられました。その結果、自己否定がマックスに達し、もう記事を書くのは止めようと考えていたとき、禅センターのルームメイトで、アイスランドからやって来た精神科医のシグルンが「これを読んで自分を信じて書くべき」と、ナタリーの本を渡してくれたのです。

それをむさぼり読んで感銘を受けた私は、アレンジ・実践しながら、自分なりの方法を探し続けました。アウトプットの方法を変えたのは、ナタリーの文章術が目指す”誰かに読まれる文章を書く”以前に、”書くことで自分との信頼関係を再構築する”具体的な方法を切実に求めていたからです。

私は自分のことをどう思っていて、周りがどう見えていて、何が好きで、何が苦手で、今どんな気持ちでいるのか。一番捨てたいものは何で、一番ほしいものは何か。何の制限もなければ、何を選ぶのか。

いったん周りのことは置いて、自然な状態の自分がどう生きていきたいのかを確認したかったのです。

そうして日記帳に向かう時間が長くなるにつれ、 “いまに在る”を実践する禅修行も助けになって、失いつつあった生命力が次第に戻っていくのが感じられました。

数か月経った、あるクリスマスの日。私が暮らしていた禅センターの僧院長、ハリファックス老師と親友だったナタリーが、私たちレジデント全員を世界遺産「タオス・プエブロ」に連れて行ってくれました。プエブロ(※)で暮らすアメリカ先住民たちの鹿ダンスを皆で観るために、です。

(※)アメリカ南西部(特にニューメキシコ州やアリゾナ州)のアメリカ先住民の伝統的な集落のこと。そこで暮らす人のことも指す。

松明が真っ赤な炎を上げるなか、男たちの鹿ダンスを先導するのは、豊穣の女神に扮した先住民の女性でした。アメリカ白人女性の老師はそれを指して、「見て、彼らが現す女性性の強さを。この文化を私たち西洋人の画一的なものの見方で奪ってしまったことをとても辛く思うわ」と私に言いました。彼女の目には一筋の涙が光っていました。

当時の私は、ナバホ族の集落での複雑な思いを未消化なままでした。けれども老師と手をつなぎ、血の跡がついたままの鹿の毛皮を被って夜どおし踊り続ける彼らの力強いダンスを観るうちに、身体中に命そのもののようなエネルギーが流れるのが感じられました。

そして、その一件を一気に書いた夜のこと。封印していた悲しみや痛みや恥ずかしさが自ずとあふれ、涙とともに洗い流されていきました。書くことで、浮上させないようにと食い止めていた感情をようやく感じられたのです。

©︎Upaya Zen Center /ある冬の日にハリファックス老師とレジデントの皆と一緒に。筆者(前列左)。

書くことで実感できた、自己信頼感と苦しみからの学び。

確かにナタリーがいうように、書くことには、自分を信頼して、本当の願いを気づかせる力がある。そして書き続けるうちに、どんな逆境にも必ず教訓があることも少しずつわかってきました。実は、私は今、重度の顔面マヒを患っていますが、この体験からもまた、書くことで“頭だけで理解しようとしない大切さ”を教わり続けています。

だからもしあなたが今苦しかったり、どうしたらいいのかわからなかったり、何かに迷っていたり、もっと深い自分の欲求や願いを知りたかったりするのなら、ぜひ書いてみてほしいのです。もっと自然な自分を、すべてのプロセスを、今体験している現実を信じてもいいんだなと思えるようになるから。

上手く書こうとすることも、誰かに見せる必要もありません。ただ、自分のために書く時間をあなたに贈ってほしいのです。それは心をオープンにし、あなたの言い分を傾聴し、その思いに寄り添える時間になります。「書くこと」にはカウンセリング効果があるのです。

作家の村上春樹さんも臨床心理学者の河合隼雄さんとの対談で、小説を書き始めたのは自己治療のためだったとお話しされています。ナタリーもまた、書くことの9割は、実は自分の胸の内を聞く作業だと言います。

実際に、心に浮かぶ思いを誰にも見せず、ノートに書いて、書いて、書きまくる、ジャーナリングという心理セラピーがあります。これは書く瞑想とも言われ、アメリカではトラウマなどの心理療法に使われています。

その効果は科学的にも立証され、ジャーナリングで書き手たちが辛い気持ちを書いて浮上させ、体験したことの意味を再認識することで、パートナーとの別れ(1)、愛する人の死(2)、無職状態(3)、自然災害(4)、一般的にストレスな出来事(5)といった、絶望から回復する助けになったそうです。

続きは…具体的な方法やそのメカニズムについて執筆したgreenz記事で

1.Lepore SJ, Greenberg MA. Mending broken hearts: effects of expressive writing on mood, cognitive processing, social adjustment and health following a relationship breakup. Psychol Health. 2002;17(5):547-560.2. Kovac SH, Range LM. Writing projects: lessening undergraduates’ unique suicidal bereavement. Suicide Life Threat Behav. 2000;30(1):50-60.3. Spera SP, Buhrfeind ED, Pennebaker JW. Expressive writing and coping with job loss. Acad Manage J. 1994;37(3):722-733.4. Smyth J, Hockemeyer J, Anderson C, et al. Structured writing about a natural disaster buffers the effect of intrusive thoughts on negative affect and physical symptoms. Aust J of Disast Trauma. 2002;1:2002-2001.5. Schoutrop MJ, Lange A, Hanewald G, Davidovich U, Salomon H, tte e. Structured writing and processing major stressful events: A controlled trial. Psychother Psychosom. 2002;71(3):151-157.