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[8] ハートのネクタイ

電車で揺られながら、向かい合う4人掛け席には私を含めてぎっしり8人が腰かけています。うち6人がLINEしたり、漫画を読んだりと携帯電話の画面にくぎづけ。そうでないのは斜め向かいでパンフレットのようなものを整理していた制服姿の50代半ばぐらいの女性とぼんやりと車内を眺めていたわたしだけ。

隣にどんな人が座っているかなんて視界には入りません。ひょっとしたら、よく見るとわたしがかなり人間っぽいゴリラだったとしても、携帯の世界に入り込んでいる彼らは気づかないのかもしれない。そもそも見ていないのだから。

車窓を眺めているうちに3歳ぐらいのころに同じ電車に乗って、母に兄と一緒に大阪の動物園へ連れて行ってもらったときのことを思い出しました。あれはたしか平日の昼間だったけど電車は結構混んでいて、わたしは母に手を繋がれてドアの近くのスペースに立っていました。すると目に飛び込んできたのは、ハートのネクタイの先っぽ。深い紺の地に真っ赤な小さなハートがずらーっと並んだデザインのネクタイでした。

ハートにぞっこんだった3歳のころ。

当時のわたしはハートに目がなくて、落書きもハートだらけ。当然大好きなおばあちゃんへの手紙もまだ字が書けないからハートで埋め尽くされた絵を届けました。そういえば会社に通っていたころ、同期のエヌ君が女性誌に配属されることになり「もっと可愛い原稿にして」と上司の編集者に言われて、文末にハートマークを入れたら怒られた。彼は「なんでかなぁ」とこぼしていたけど、そりゃそうでしょうよ。でも3歳のころのわたしとは話が合いそう。

さてハートのネクタイに感激した3歳のわたしは、「はぁと…。はぁと…」。「おかあさん、はぁと!はぁと!!」と電車のなかで叫び出しました。目の前のハートマークを指差すわたしに、ハートのネクタイをしていた小柄なおじさんは「そうやなぁ、お嬢ちゃん。ハートやなぁ」と言ってにっこり笑ってくれました。おかあさんも笑って、窓のそばで外の景色を見ていた7歳の兄は、その様子を遠目で「よくあんな知らない人に話しかけるわ」と恥ずかしそうにして、でも堪えきれずにきゅうきゅう笑っていました。

ダメ出しされたら傷つく。

失敗したら恥ずかしい。

否定されると腹が立つ。

だから本当の自分はさらけ出せない。

そんな気持ちからずっと自由な子どもたちの行動や会話にはハッとさせられることが多いです。このあいだも2歳の息子を連れた小学校の同級生と代官山でランチしていたら、彼は今なんでもビリビリしたい期真っ只中なんだそう。そんなものがあるんですね。

まず彼は勘定書を男らしく真っ二つに破りました。潔いな! よし、やってくれました!おばさんも払いたくない!  焦る友人を横目にわたしは「ひゅーひゅー」と盛り上がっていたら、ついに5千円札の樋口一葉の顔までも破られました。そこで感心したのは「あるないと振り回されて一喜一憂するお金も、彼の世界では紙切れにすぎないんだなぁ」と。それはお金の不安から自由ということで、わたしも小さいころはずっとそうでした。

いつから、それが変わったんだろう?

人の目が怖かった。

当然5年弱暮らしたアメリカから日本に帰るのはとても怖かったです。「心の探究」といいながら禅センターやスピリチュアルセンターを渡り歩いて、根無し草のヒッピーのような生活をしていたから。友人には、「これから嫌でも『使える』『使えない』という他人のものさしで実力を判定され続けて、それが自分の生きる価値みたいになっていって。想像以上のしんどい思いを日本に帰ったらずっとするようになるよ」と言われました。そんなことはわかっている、言われなくったって。

それはもうアメリカに行って2年目ぐらいで思い知っていました。一時帰国をしたときに元上司に美容ジャーナリストの友人と一緒に料理店に連れて行ってもらったことがあります。そこで突然その店のオーナーさん、広報さんと名刺交換をすることになり、雑誌の副編集長の上司といろんな雑誌で連載を持っていた友人の名刺はゴールデンカード。わたしはもう女性誌の編集者を辞めて学生に戻ったので、名刺なんてものは持っていません。それは当時のわたしが一番怖かったシナリオでした。

「ごめんなさい、わたし名刺が無いんです」と言ったら「そうですか」。オーナーさんも広報さんもそれからわたしの方は見向きもしなくなり、元上司と友人に一生懸命お店を宣伝していました。あのときにわたしが抱いたのは、恥だったのだろうか。胸がキリキリっと痛んだけど、想像していたほど怖いことではありませんでした。それは筋書き通りの映画のワンシーンを見ているような感じがしました。

怖いことはわからないから、怖い。

それ以来、傷つく可能性があるものは心の準備ができたら、あえて体験するようにしています。怖いことはそれがどんなものかわからないから怖いのです。お化けだって宇宙人だって、それがなんだかよくわからないから恐怖心を募るでしょう?一度見たら、もちろんギョエーっだけど、見る前よりは「こんなもんなんだ」とわかった分、免疫がつきます。

そしてだいたいにおいてわたしの恐怖は人からどう思われるか気にするところから派生しています。でもそこにビクビクすることはわたしがたくさん笑えたり、自由に泣けて、偽りの無い人生に深く関わっていけることとまったく関係が無い。

今までいろんなスピリチュアルセンターや禅センターに行きました。これからは旅に出るとか、リトリートに出かけて味わう学びや喜びとは一味違う、場所に根ざすことを通して感じることを体験したいと思っています。よその場所に答えを求めるのではなく、きまりの悪さを抱えながら、傷つく心を守ろうとしている自分を認めること。そこをスタートラインに今ここで暮らす楽しみをじわじわと感じられたらいいな。

スーパー平凡人、参上!

例えば50年間も毎日料理を人のために作り続けてきた母のすごさは、バークレーでたった8か月間だったけれど毎日認知症の女性に朝食を作り続けたときに思い知りました。当たり前のことを続けるためには、淡々とした相当なパワーが必要です。そこでわたしはスーパー平凡人を目指したい。いつまでたっても昔夢見ていたような、スーパーウーマンに変身しなくたっていい。だってそもそも、もうそれがスーパーなんだから。

そして目の前の人たちを大切にして、「平凡」な世界の非凡さを感じられる力を養いたいです。あのハートのネクタイに目を輝かせたときのように。