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[38]プルシャとプラクリティ

編集者時代に、土日の各8時間を利用してヨガのインストラクターコースに通っていたことがあります。1日のカリキュラムの4時間はポーズの練習、4時間は『ヨーガスートラ』をはじめとしたヨーガ哲学やアーユルヴェーダについて座学が行われました。

 

そこで、宇宙の成り立ちや人の存在意義、苦しみの意味や原因、その解放の方法を実践する手段としてなぜヨガなのか、を説明するサーンキア哲学を学びました。

 

サーンキア哲学は「数論(すろん)」とも訳されますが、すべてのものは25の原理で説明できると考えられ、その大もとは2つの原理であるプルシャプラクリティです。

 

プルシャは人生ゲームを眺める存在

プルシャは、真実の自己という意味で「アートマン」とも呼ばれます。純粋精神である個人の「核」のようなものです。いうならばプルシャは映画を観ている存在で、プラクリティは映画のなかであれこれ変化しながら展開される物事です。

 

いわゆる映画鑑賞者と違ってプルシャは、目の前の出来事や体験について思考したり感情や理性を働かせることなく、ただその状態を「観照」する存在。

『般若心経』では同じようなことを、「空(くう)」という概念で、あらゆる事象(生死においても)は変化し続けて終わりも始まりもなく、私たちの感覚や考え、思いにもなにもかもが実体がないと説かれます。

 

私は自力でそこに至ったわけではありませんが、ひょんないきさつからペルー人クアンデロ(男性祈祷師)の末裔であるエミリオのエネルギーヒーリングを受けることになって、偶然これを体験しました。摩訶不思議で奇怪ですよね、私もそう思います。あとにも先にもこれ一度きり(今のところ)。いわゆる聖者やスピリチュアルマスターと呼ばれる人たちは瞑想などで、自力でいつでもこの解脱状態に入れ、苦や死や快とは別のゾーンに在ることが出来るのでしょう。

 

父が大手術で全身麻酔を受けたときのことです。「麻酔が効いた後、目が覚めるまでまったくの無だった。痛みもなんの感覚も、思いも、判断も、どんな意識も、記憶もなんにもない」と、その体験について教えてくれました。

 

プルシャ状態とは、この体験に意識と記憶を加えたものといえばわかりがいいでしょうか。でも快・不快という感情やそれに伴うジャッジが加わらないので、いわゆる私たちが通常抱く意識や記憶とはまったく違った体験です。

 

当然感情や判断が働かないのでその時点での体験はあってもないようなものなのですが、後から言葉での説明を試みれば、すべての重荷がなくなったような(本当になんにもないから重荷も期待も欲望もない)、圧倒的な開放感と安らぎと静寂の感覚です。でも、喜びもない。スピリチュアル本にいわれるような、愛とかワクワクという楽しい感じでもない。

 

どんな言葉で言い表してもなんか違うので(感覚自体がないものを感覚的に説明しようとしているから)、なんとも説明しがたいのですが、そこでは時間のような一定の流れや枠組みで区切る感覚もありません。だからその状態で在りたいのかと言われると正直よくわかりませんが(でもものすごくラクではある)、「これが本来の状態なんだろうな」とはすんなりと静かに納得できる感じです。

 

普段の生活で、大事な人たちが病気になったり苦しんだり亡くなったり、自分の生活がうまくいかなくなると、心を痛めたり、落ち込みます。楽しい会話のあとや、素敵なケーキを食べたあとでは、喜びを感じます。失敗を次に生かそうと工夫したり、理性を働かせて改善していきます。相変わらず右往左往してはいるのですが、そういうジタバタ体験がなんだか前より愛しく感じられるようになりました。

 

私たちは、幸せになりたい、人を元気づけたい、成長し続けたいといった大まかな意図を持ったことで、あえてプルシャ(観照者)の立場にとどまらず、冒険しているのではないかと思います。あらゆる現象世界で嫌な気分や良い気分を体験しながら自分の状態を作り変えるというプラクリティ(根本原質)の体験を選択しているんじゃないかな。無意識だとしても。

 

そうでなければおそらく、この物質世界に生まれることは無かったのではと、ふと思うんです。

 

参考・『いまに生きる インドの叡智』成瀬貴良著(善本社)