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[51]ホリスティック

わたしはコーヒーに目がないのです。とくに朝起きてすぐの、コーヒー豆を手挽きのミルでひいているとき。あの香りから1日が始まると思います。

 

ちょっと気が滅入っているときも、「熱い濃いめのコーヒーを丁寧にいれてあげる」と自分を奮い立たせます。そんなとっておきの一杯で1日を始めると、そのあとも自然に流れていきます。

 

ところが残念なことに、最近コーヒーを飲むとわたしの身体は冷えてしまいます。足首がぐっと冷たくなって感覚が鈍くなり、数日すると喉がイガイガしだして、いつにもましてアレルギーのくしゃみも強くなります。

 

「きっと気のせい」と無視してみたのですが、残念なことに、わたしの身体を通じたコーヒーミステリーでは、コーヒーと身体の不調にれっきとした相関性があるようです。

 

わたしたちが欲するものには、身体が求めるもの、心が求めるもの、魂が求めるものという3種類があります。

 

英語にholistic(ホリスティック)という言葉がありますが、この語は全体的とも訳されますが、ホリスティックな生き方とは、身体、心、魂の全体を生きることです。ありのままの自分を生きるとも言い換えられるでしょう。

 

身体と心と魂の全体で体験したり、愛を広げたり、自分自身や他の人と関わり合うというのが、命の輝きを持続可能にすることの起点だと思います。

 

そして誰の人生も、このホリスティックな命の表現という、壮大な創造の旅路です。

 

バランスが崩れると「この選択でいいの?」という小さな声が最初はちょっとした違和感から始まり、心が苦しかったり、やる気が出なかったり、体調を崩したり、身体、心、魂のいずれか(もしくはその掛け合わせ)に不調和が現れ、それを無視するほどに声は大きくなっていきます。

 

だから心が求めるからと身体の声を無視せずに、コーヒーは身体が「いいよ!」と言ったときに、ウキウキしながら飲むようにしています。

 

わたしの身体にとってベストな食品ではないことはわかっていますが、好きなのです。アツアツで濃いめのコーヒーは、わたしの頭をしゃんとさせてくれるし、焼き菓子と同じくわたしにとっては好きを超えた、人間が創った芸術の域なので決して止めません。わたしの心が欲しているものなのです。明日は変わるかもしれないけど、少なくとも今は。その声も無視しないのです。

 

身体と心と魂の全部がにっこり手を取り合うような、わたしのバランスを探します。

 

本日久しぶりに身体からのOKが出たので、10日ぶりの熱くて濃いコーヒーを味わっていました。

 

するとカリフォルニアで有機の梅林をやっているキヨちゃんから、このマキワリ日記が「今忘れられずに飲んでいる、昔に給食で出たようなコーヒー牛乳。それを飲みながら読むのにぴったり」というメールがきました。

 

それって嬉しいなぁ。

 

というのも、ほかで書いてきた記事を読んでくださった人に実際にお会いしてお話ししたり、お会いした後に記事を読んでくださったりすると、決まって「書かれているものと会ったときの印象がずいぶん違うんですね」と言われてきました。

 

「へぇー」。

 

実際に会ってみると「随分ゆるんとしているんだなぁ」、「意外に毎日楽しそうじゃないか」という話みたいです。

「読んでもらうぞ」と力んでしまって、別人格になってしまうのかしら。

 

だからこれは、毎朝甘いパック入りや瓶入りのレトロなコーヒー牛乳を飲みながら読むのにぴったりとキヨちゃんに言われて。

マキワリ日記でようやく力みがなくて、自然で、等身大。

愛しき平凡のエネルギーをホリスティックな形で出せているのかなぁと、わたしの身体と心と魂の全部が喜んだのです。

 

へたっぴぃな絵を披露し続けた甲斐がありました。今だから明かすけど、実は白の絵の具が切れているから、ちょっとどの絵もずず黒い。

 

さてコーヒーと身体、心、魂の関係について話を戻すと、コーヒーを抜いて5日目ぐらいにキヨちゃんがアルパカと暮らすんだろうなという気がしたのでこんなものを書きました。[50]えたいがしれない

 

そして5日経って驚くことにキヨちゃん。友だちが買った土地にたまたまアルパカやリャマたちが生活していたらしく(たまたまアルパカが暮らす土地って、ペルーでも無く普通にあるものなの?)、「彼らを引き取って、一緒に暮らす?」と連絡が来たらしいです。

 

嘘みたいな話だけど、これ本当なの。まぁ、宇宙のリズムと呼応しながら生きているキヨちゃんのことだからこういうミラクルが起きても「さもありなん」なんだけど。わたしの周りの人たちはそういうメンツ揃いだから、いまさらもうあまり驚きませんが。

 

キヨちゃんとアルパカが暮らす流れはもう出来ていて、コーヒーを抜いたことで敏感になった魂のセンサーが、敏腕デスクのように特ダネをつかんで先に知らせてくれた様子です。

 

こういった「そんな気がする」みたいな感覚的なものは、お風呂に入っていたり、好きな音楽を聴いた後や、瞑想で脳波がθ波かα波になったときの、力みが抜けているときにつながりやすい気がします。想像の世界で暮らし、批判や合理的判断があまりない、小さなときの自分とつながって絵を描いているときもそう。

 

ジョー・ディスペンザ博士が考えるように、小さな子どもの脳波はデルタ波(誕生から2歳)、θ派(2歳前後から5,6歳)、α波(5歳〜8歳)と、睡眠や明晰夢、リラックスした心といった思考分析活動が減った状態にあるのでしょう(1)。

 

心で考えるとありえないことが、身体ではありえたり、心も身体でも現実味がないことが、魂レベルでは普通だったりするのだと思います。わたしたちは身体、心、魂という多次元を生きています。小さい子どもはこの次元の境が薄くて、行ったり来たりがずっと自由なのでしょう。

 

心と身体の負荷を減らすことで、「まぁそういうこともあるんだろうな」とオープンになり、深いレベルの“知っている”が目覚めていきます。

それは誰でもそうです。あなたもそう。夢を見ているときに「おかしい」と思わないでしょう。あのオープンな感覚です。

 

どうか自由に生きてくださいね。

 

参考

(1)ジョー・ディスペンザ著、東川恭子訳『あなたという習慣を断つ』(ナチュラルスピリット)