ありのままの自分で本当に幸せになれるの? アメリカ先住民ナバホ族の集落で死にかけて学べた私の幸福学 #16

「そんなのできっこない」「稼がなきゃダメ」
「なんかスペックないの?」「もう若くないでしょ」
「いつも笑顔で感じよくないと嫌われるぞ」

やりたいことをしようとしたり、言いたいことを言おうとしたら、立ちはだかる心の壁。「もう一人の私」が、恐れや諦め、評価の声で「私」を追い詰めます。

一番の味方でいたいのに、どうして自分に一番厳しくなるんだろう?
求められる人物像じゃないと、存在しちゃいけないの?

これは、私が抱く切実な疑問です。
そこで浮かぶのは日本の自殺率の高さ。2020年10月は前年同月比で39.9%増、女性に至っては82.6%増(※)。私だけでなく、この問いを抱える人が少なくないのかもしれません。

(※)警察庁/令和2年の月別の自殺者数

東日本大震災後に離婚して、幸せが何かがわからなくなった私。その数年後には勤めていたマガジンハウスという出版社を辞めて、アメリカで幸福心理学(※)を学びます。そして、ついには家を引き払って、スピリチュアルセンターを渡り歩くことに。

その間は山籠りして100人分のご飯をつくったり、ボランティアしたりしながら、与えられた部屋や食事でその日暮らし。または貯金を切り崩して民泊やモーテルで生活していました。現在は帰国し、物を書いたりしながら東京で暮らしています。

(※)幸せを科学的に研究する心理学のひとつ。感謝や思いやり、瞑想の効果なども研究対象。

パートナーやキャリア、持っていたものを失い続けることでしか「こんな何もない自分でもアリ?」を実感できなかった私。そんな極端なことをしなくても足元を見つめ直すことで、腑に落とせる人もいるでしょう。とても素敵なことだと思います。

一方、私は、泣いたり、笑ったり、怒ったり、死にかけたり、支えてもらったり、傷つけたり、傷つけられたり、あらゆる紆余曲折の先にやっと学べました。そこで得た幸せの方程式は、とてもシンプルなもの。

1. ありのままの自分(現実)を受け入れるのが始点。
2. 思いやりと誇りを持って、心から信じること、好きなこと、この世界と一緒に輝けることを愚直に磨き続ける。
3. おのずと現れた結果として、誰かが喜ぶと幸せが倍増する。

しかし、このスタートラインの “ありのままの自分を受け入れる”というのが、ものすごく難しい。期待には応えたいし、できない自分、弱い自分、ダメな自分を認めるのはツライからです。私はたくさん遠回りしました。アメリカ先住民ナバホ族の集落では、一番認めたくない自分を強烈に見ることにもなりました。

その結果「自分が正しい」と思うことが「必ずしも正しくない」ことを思い知りました。役立てるはずという幻想も打ち砕かれて、“こういう弱いところも私で、それでも存在していいのかな”と思えるようにもなりました。

振り返れば一生の宝物だったと思います。自分のカッコ悪さを自覚し、ホンネで「どんな生き方を描きたいのだろう?」と再定義できたからです。そんな私の不格好な体験談で、少しでもあなたの気分が楽になって、何かの後押しができれば、本当に幸せです。

編集者を目指したワケ。なぜ会社を辞めてアメリカに?

あれこれ知りたくて移り気な私が唯一続けていたのは、毎日祖母へ手紙を書くことでした。就職活動直前に最愛の彼女を亡くしましたが、運よくマガジンハウスに採用されたことで、もっと多くの人に「手紙を贈れる」奇跡に恵まれました。

10年が過ぎて仕事にも慣れてきたころ、東日本大震災が発生。anan編集部で被災しました。亡くなった祖母への想いに加えて震災の大きな被害を知ることで、命の尊さとはかなさを実感。シミを無くすメイクページの校正を戻しながら、「限りある命で心から届けたいメッセージはなんだろう?」と自問自答するようになりました。

祖母に手紙を書いていた頃の思いも振り返ってみました。すると一番の愛読者でいてくれた祖母が、短所つきの私を「ありのままでいい」と応援してくれていたこと。上司や仲間、家族の思いやり、日課の瞑想などの数値化できず目に見えない世界に支えられてきたことが心に浮かびました。自問自答の末、行き着いたのは“シミを隠すよりも、喜びでシミ丸ごと輝く人に”。そんな世界観を共有したいのだとわかったのです。

そんなとき、カリフォルニア大学バークレー校心理学部のダチャー・ケトナー博士が、思いやりや感謝の心、瞑想が幸福度に影響するという幸福心理学(幸福学)初のオンライン講義を始めると耳にします。

彼から科学的根拠のある幸福学を学び、自分がそれを実体験することで、見えない世界特有の胡散くささや説教くささを軽減して伝えられるかも? とひらめきました。そこで「アメリカに行って、この先生に直接学びたい」と人事に休職相談するとNG。飽きるまで悩んだ末に、退職を決めて渡米しました。

つてがなく英語もわからないので、最初の半年間は、語学学校に通いました。「バークレーなんて絶対ムリ」と学校の先生にも言われ続けました。心が折れそうになると海を見に行ったり、近所の公園を犬に混じって走り回ったりして、TOEFL(英語検定)を勉強しました。そして8か月が過ぎた頃、いろんな奇跡が重なって、2年間博士の研究室で学べることになりました。

続きはこちら…

「あの海の向こうに東京が…」と絶望する姿をたまたま通りかかったロシア人旅行者が撮影してくれた。