頑張りたいのにやる気が出ないのにはスピリチュアルなワケがある。あなたの無気力感から抜け出すためにできること。

sense of powerlessness

ちゃんとしなきゃ、動かないと…とわかっているのにやる気が出ない、頑張れないときがあります。そんな自分にダメ出しするのではなく、その無気力感を本音に耳を傾けるチャンスにしましょう。ときに立ち止まることはあなたの人生を生きるためにも大切なことで、そこにはスピリチュアルな深い理由があります。頑張りたいのにやる気が出ないジレンマは、決してあなたを罰しているのではなく、もっとラクに本音で生きやすくなるための招待状。無力感から抜け出すヒントについて実体験からお話しします。

頑張りたいのにやる気が出ないというジレンマ。

朝起きるのがおっくうだったり、締め切り間近なのに集中できず、課題に取り組めなかったり…。やる気を出さないといけないとわかっているのに、どうにも動けない。周りには怠けているだけと受け取られるし、「そんな自分はダメな人間で情けない」という気持ちが心から離れません。そして、そんな心のダメージで生まれるむなしい気持ち、無力感を抱いて消えてしまいたくなるのです。

動けない無力感の背後にあるもの、学習性無力感とは?

この無力感の背後にあるものは、学習性無力感(がくしゅうせいむりょくかん)です。

長い期間、避けられないストレス下に置かれた人や動物は、その状況から逃れようとする努力すら行わなくなるといいます。これが学習性無力感。ポジティブ心理学の創始者のひとりとされる、マーティン・セリグマンという心理学者が提唱した理論です。

電気ショックを受け続けた犬がとる行動とは?

学習性無力感についてよくわかる実験があります。セリグマンが行った実験は以下の3つの設定で実施されました。

(設定1)Aの犬を、ボタンを押すと電気ショックを回避できるケージに入れる。

(設定2)Bの犬を、なにをしても電気ショックを回避できないケージに入れる。

(設定3)AとBの犬を、1と2の後でボタンを押すと電気ショックを回避できるケージに移す。

設定1のAの犬は、ボタンを押して電気ショックを回避するという行動を学習し、すぐ実行するようになりました。

設定2のBの犬は、無力感に苛まれて、なにも行動を起こさなくなりました。

設定3ではA、Bどちらの犬も、ボタンを押せば電気ショックを回避できる設定にあります。けれども、Aの犬は回避行動をとった一方で、Bの犬は動かずひたすら電気ショックを受け続けました。

このBの犬の心理状態が学習性無力感です。電気ショックを回避したいと願ってもそれが果たされないという状況を経験し続けた結果、心が折れてしまい、もう課題に取り組もうというやる気が出ない、動けない心理状態に陥ったということです。

人生における電気ショックは、本音を無視して自分の人生を生きないこと。

 では私たちが日常生活を送るうえで、止めることができない電気ショックのように私たちに学習性無力感を抱かせるものとはなんでしょうか。それは本音をムシし続けること。言い換えれば、自分ではない人の人生を代わりに生きようとすることです。

それがなぜ頑張りたいのにやる気が出ない、前に進みたいのに動けないという心と体の食い違いを生むというのでしょうか。そこでまず、私たちの本質をスピリチュアル次元で説明したいと思います。



スピリチュアル次元の私たちは、層を成したエネルギー場。

私たち人間や動物、植物などは、それぞれに色や形、質感がある物体ですよね。しかしそれらをスピリチュアル次元で捉えると、目に見える体の外側には層をなしたエネルギー場があると考えられています。つまりスピリチュアル次元の私たちは、皮膚の内側までが私たちということではなく、ずっとずっとその先までエネルギーとして続く体を持っているということなんですね。物理的には見えなかったりずっと遠かったりしても、エネルギーレベルではお互いに作用しあっているんです。

例えば神智学では肉体、つまり物質体(フィジカルボディ)に近いところから、エーテル体(エーテルボディ/気)アストラル体(エモーショナルボディ/感情)メンタル体(メンタルボディ/精神・思考)コーザル体(コーザルボディ/信仰)という4つの体を持つとされています(その先は、ブッディ・キリスト体、アートマ体、モナド体…と続く)。

白壁をバックにして手を遠い目で見つめ続けるとボヤッと緑色だったり白色だったりするものが見えてオーラと言われたりもしますが、通常の肉眼では、肉体以外の体ははっきりと見ることはできません。

エーテル体の生命エネルギーのことは、中医学や合気道などの武道では“気”、ヨガでは”プラーナ“と呼ばれたりもします。

万物におけるこれらの体の源流、大元のエネルギーは、インド哲学なら宇宙の摂理(ブラフマン)、キリスト教やユダヤ教、イスラム教の神、仏教における法(ダルマ)、引き寄せの法則であれば命の源(ソース)と言われます。

つまり、私たちの肉体とは、気、感情、精神・思考、信仰(よりどころとする教え)、すべての源という目に見えないエネルギーを最終的に物質という形で現したものです。

物理的に動けないのは、魂の計画からズレているから。

そんな物理次元にある私たちが動けない、やる気が出ないということは、スピリチュアル次元から俯瞰して捉えれば、どこかの時点で源のエネルギーとのつながりが遮断されているということです。つまり、肉体に到達する前のどこかのエネルギー段階で、本来の自分という命を現せていないということ。それを肉体として現れる(生まれる)前の、魂の計画に従えていない状態とも言えるでしょう。

ウイルスと私の意識が同調して現れた顔面麻痺。

魂の計画に従えていない、つまりありのままの自分であることを自分に赦せていないときには、ストップがかかります。命と切り離された状態なのですから。

そこで頑張りたいのにやる気が出ない、動けないというのはそんな本音のサインがキャッチできているということです。器用に核心をそらせたり、気力で走り続けてしまったりしたときには、結果として病気のような強制終了がかかることもあります。例えば、私は昨年末に重度の顔面麻痺になりました。

肉体次元でみれば、ラムゼイハントというウィルスの病気にかかったということです。ところがスピリチュアル次元で捉えれば、肉体に至るまえの私の意識体のどれかが源のエネルギーから遮断されたことで、ウィルスと同調して顔面麻痺を現したとも言えるでしょう。

参考:エネルギーと癌との深い関係が書かれた本です―希望の書〈からだ〉の声があなたに伝えるスピリチュアルなメッセージ

なぜならこの病気は、子どもの頃にかかった水疱瘡ウイルスの再活性化で生じるものであり、主にストレスなどによる免疫力の低下で出現するものだからです。つまり、ずっとウイルスと共存してきたわけですが、ウイルスの方が免疫力より強力になった(私のエネルギーがウイルスと同調した)ことでラムゼイハントとして現れたのでした。

一体どういうことでしょうか。顔面麻痺ですから、顔が動かないのでまばたきすると白目をむいて怖いです。食べたり飲んだりしてもこぼしてしまうし、パピプペポは唇から空気が抜けて発音できない。表情をつくれないので、うまく笑うこともできないんですね。

相手を心配させないように笑おうとしても笑顔が作れない。見た目が怖くて、「大丈夫です」と言っても、明らかにだいじょうぶ感がゼロ。しばらく耳が痛くて難聴にもなったので電話で話すにもつらい…と、取り繕えないんです。

参考:風の時代へ。冬至の心の毒だし、バシャールの現実創造で何が起こる? 突然顔面マヒに、ラムゼイハント症で緊急入院した話。

免疫力が弱くなっているのは、自分を愛する力が弱くなっているサイン。

そこで私が気づいたのが、いかに自分が愛想笑いと「大丈夫です」という言葉で本音を流してきたかということ。悲しいときや怒っているときも、なんでも無いさと笑ってきた自分は決して強かったわけではなかったのです。弱い自分を表したときに、他の人にどう思われてしまうかが心配で、ありのままの自分と向き合えていなかったのですね。どこかで気づかないうちに、人生を生き流していたのです。

つまりはこちらで、“ありのままの自分を許そう”と祈るようにメッセージを届けながら、深い部分でそれを自分自身に赦せていなかったのです。

免疫力が弱くなっているというのは、自分を愛する力も弱くなっているということです。つまり、自分を憎む力の方が、自分を愛する力より強くなっているということ。

本当はもう動けなかったのですね。立ち止まりたかったのです。そんな自分の本音を赦せなかった私は、病気になったことで強制終了できたのです。

当時の私はポジティブに見えて、スピリチュアル次元から見ればちぐはぐな状態でした。外側の評価には影響を受けないはずの命の価値に敬意を払えていなかったのです。「お前はダメだ」という電気ショックを浴びせ続け、学習性無力感に陥っていたのでした。

顔面麻痺がそのパターンにストップをかけてくれたのでした。



気づきの変容は、玉ねぎの皮むきのようなもの。

そして現在は、少し後遺症が残ったとはいえだいぶ回復したので、もう私は完全にその学びから自由になった!ということでもないんですね。変容というのは玉ねぎの皮むきのようなもので、学びが核心部へと向かってきます。

そう聞くと、スピリチュアルとは終わらない旅ではないかと恐ろしく感じられるかもしれません。どうかそう思って心配なさらないでください。

深い気づきを得たときは、たとえ心がえぐられるような体験をしても(or体験中でも)なにごとにも変えがたく守られた感じや「すべては大丈夫なんだ」と腑に落ちるからです。

気づきを持つとき、つまり「古い意識」から「古い意識を観察する意識」へと移行するとき、古い意識につなぎとめられる力が弱まるのです。そして古い皮が少しずつはがれていき、私たちの核心である本質、ありのままの私へと近づいていきます。

つまり変容とは、新しい何かを加えるというよりも、古いものを手放して元の光に戻る行為なのだと思います。言い換えればそれは、今まで築いてきた根強いバイアスを外してあげること。他の人がそれが正しいと認めるからではなく、自分の人生で自分が価値を認めているものを自分で見つけて、その価値をもっともっと認める。それに専心し、自分は価値ある人間であるのだと自分を扱うことなのだと思います。

気づきを得たらその学びは終了ではなく、どんどん深部へ向かっていくのだなぁーと実感するような出来事が先日もありましたので、ここでシェアさせていただきますね。

あやうくまた「お前が大切にしようとしているものはダメなんだ」と自分に電気ショックを浴びせかけるところでした。あぶない、あぶない…。

実家に帰って両親と暮らすという決断をしたら…

私は20年以上親元を離れて生活してきました。そこで実家を出てからは、親とは年に一度、下手したら2年に一度というペースで会っていました。

しかし、この夏に親が大きな病気になったこと、昨年末には自分が顔面麻痺を患ったこと。昨年は伯父が膵臓癌の診断を受けて、1か月足らずで亡くなったこと。そして2年前に元夫が突然死したこと。それらが重なって、悲観的に聞こえるかもしれませんが、どんな人とも健康な状態で一緒に過ごす時間が永遠ではないと、その価値を深く実感するようになったんです。

そこで自分は今どう限られた時間を過ごしたいのだろうか?と深い本音を見つめました。その結果、この夏に年内に東京を引き払って実家で親と一緒に暮らすことを決めたのです。日本やアメリカをひとりで自由気ままに動き回っていた私には、パラダイムシフトでした。

参考:ありのままの自分で本当に幸せになれるの? マガジンハウスからホームレス編集者へ。アメリカ先住民ナバホ族の集落で死にかけて学べた私の幸福学

そして父の病気がきっかけで母と持つようになった、母校である廃校になった小学校の校庭での朝の瞑想帰りのある日、実家のご近所さんにばったりお会いしました。

あなた、自立なさっているのよね?

そこで「一緒に暮らすことになったんです」と母が私を紹介しました。雑談する流れで、彼女に「それで、あなた自立なさっているのよね?」と言われました。「あなたも早く自立して。自信になるから」と。

彼女は父の病気のことも、母や私の体調も知りません。そこで外側の現象と見れば、東京で働き、離婚し、海外で暮らして、最終的に実家で暮らすようになった私は、志半ばで実家に戻ったとうつるのでしょう。そこで力づけて励まそうとなさって「あなたも早く自立して」とかけてくださった言葉は心遣いであり、その思いやりの気持ちは痛いほどわかっています。

しかし、その言葉に対して私の心はモヤモヤしたんですね。世間の価値観に当てはめたときに定義される自己像に心がざわついたんです。傷ついたんです。さらには「それぞれ自立した世帯主だけど?」というような、どうでもいい自己弁護のようなものまで心の中にムクムク湧いてきました。

相手にそう伝えたわけではありませんが、心の中では思ったわけだから、自分はちっちゃいな、どうでもいいことに引っかかってしまうところがあって嫌だな、と思いました。

そこで「安全な形で自分の言い分を聞くために、ジャーナリングしよう」と1ページほどノートに思いを書きました。すると上に綴らせていただいたように、モヤモヤのポイントがよくわかりました。しかし実感としてはまだ嫌な気持ちが残ったままだったんです。

参考:自然なあなたが一番美しい。ドス黒い感情やダメな視点にも価値がある! 不安、怒りを「書いて」陽転させる方法

他者からの評価に依存していた私。

すると、ランチタイムに開いた本に答えがあったんです。それは、確かに私は自立していないと気づかされるものでした。そこにはこのように書かれていたんです。

未熟な人ほど、他者からの評価を求めます。逆に言うと、「人格が成熟する」ということは「他人に求めなくなる」ということです。「他人に求めなくても、自分で自分を認めているから、自分一人で立っていられる」(自立)ということなのです。他人に何かを求めなくても十分に自立して生きている。他人に褒めてもらったり承認してもらわなくても、自己肯定感を持って、自分はこれでいいのだという感覚を持って生きていくことができる。

これが真に「自立した大人」=「成熟した人格の大人」です。それが持てないということは「大人としての未熟さ」の証です。諸富祥彦著『「本当の大人」になるための心理学 心理療法家が説く心の成熟

私がモヤモヤしたのは、自分の決断を良いことだと彼女に評価されたかったからです。他の人に承認されたかったんですね。さらに言えば、彼女が承認しないと、自分の人生で価値を認めているものには、価値がないとみなしていたんです。

それは、学習性無力感の電気ショックを浴びせかけられ続けて回避できない犬と同じです。そもそもその方と自分が考える、人生で価値があるものが違った場合に、どれだけ回避行動をとったところで電気ショックは避けられないからです。

本質の私というエネルギーからズレたので、嫌な気分になったんですね。つまり、彼女の言葉はきっかけ(刺激)に過ぎず、反応の原因ではありません。

それに対して、自立とは、「そんなことは関係ない、他の人がどう言おうと自分が心から納得して下した決断を誇らしく思っている」というスタンスです。つまり自分を縛りつけるものから脱するということ。

自分を縛りつけるものから脱し、無気力感から抜け出そう。

無気力感から抜けるためには、自力で電気ショックが回避できないケージから、回避できるケージに移行する必要があります。さらにいえば、ケージに入らないという選択肢もあるでしょう。格闘技だって、そもそも土俵にあがらなければマウントを取られないのですから。

私が電気ショックを浴びて学習性無力感に陥りそうになったのは、彼女だったり、世間だったりが認めるような他の人の人生を生きなければいけない(自分を生きることはダメ)、と一瞬でも思ったからなんですね。

そのときの私の心は、確かに自立していなかったのです。正解を他の人に求めて、承認されないと自分を認めることができないと、自分の人生の価値判断を他人に依存していたのです。

あなた、自立なさっているのよね?

と、彼女(のハイヤーセルフ)はそのことを教えてくれるために、的確な言葉をかけてくださったのでしょう。

参考:ハイヤーセルフと繋がる方法とは? 問題を解決する、自分を超えた答えのダウンロード法

頑張りたいのにやる気が出ない、無気力感で動けないのは、動きを止めて、静まり、じっとしてリラックスすることを、深い部分のあなたが求めているからです。それを許しましょう。

そして少し元気が回復したら、心地よいと思うのに、周りを気にして我慢するのは止めましょう。不快と感じるのに、責任があるから止められないものも手放しましょう。その積み重ねで、私たちはズレた本質(源)のエネルギーに再びつながることができます。そして無力感から脱して、再びやりたいことに向かうことができるのです。

そこで、どうかあるべきあなたの姿ではなく、本質のエネルギーとつながって輝く、ありのままのあなたの姿を見せる機会を周りの人に与えてください。

あなたの人生で、一番大切なのはなんでしょうか。人生の成功とはなんでしょうか。

それは、あなたが幸せであることです。そしてあなたが受け取るものは、あなたが与えるものです。