愛やサービスは、エネルギーの交流だということ

病気になって以来、まったくすごいなぁと思うのです、エネルギーの力って。

一昨日に、カリフォルニアでオーガニックの梅林をやっているキヨちゃんが代表して、カリフォルニアのみんなからの慰問小包が届きました。手紙を読み、冬至のミストをスプレーし、家族でチョコレートを食べて、シダーを父のアメジストの原石と一緒に窓辺に置き、夜にクリームを塗って寝る…。そんなふうにしていたら今日、明らかに閉じていたハートが開いていくのが感じられました。

頭で理解したふうなことと経験で実感するのってやっぱり全然違う。ものすごくパワフルで腑に落ちるんです。愛は交流のエネルギーなんだなぁ…。そう実感しました。

愛を受け取って、自然とみんなに何かを贈りたくなっている自分がいる。それがワクワクするし、幸せを感じる。ちょっと前までしんどくて余裕がなかったのに。本当に祈りとか思いとかのエネルギーってあるんだなと思いますよ。それがすべてかもしれません。

私がアメリカで学生生活やアドレスホッパー生活を送っていたとき、お金が無くなっていくことがものすごい恐怖だったんです。家族もパートナーもいないし、本当にひとり。ギフトの世界について感銘を受けて記事を書きながらも、現実ではお金が無くなったら私ひとりじゃ完全にアウトだなという心細さと切迫感が常にあったんです。禅センターでの奉仕中に車に轢かれたときも、請求額が怖くて、頑なに警察官の人が呼んでくれた救急車に乗りませんでしたし。

参考:ベーシックインカム制度とギフト経済について書いた記事

参考:お会計ゼロ円レストランオーナー、ニップンさんのギフトな生き方#11

だから2ドルのバス代をケチって片道1時間歩いたり(ダイエットにはなった)、コーヒーショップでは5ドルのカフェラテではなく1.9ドルの本日のコーヒーで粘ったりして。今考えれば、お店にとってイヤなお客さんですよね。数ドルの違いなら余分にお金を払って、感謝と喜びのエネルギー出したほうがお得だよって今は思うんだけど。

心地よいを選んで、本当にお金が無くなったときに考えればよかったのにね。きっと心地よいを繋いでいたら、残金ゼロになったとしても心地よい解決策が見出せただろうに。

もっとみんなと美味しいものを食べたり、出かけたり、贈り物したり、笑ったり泣いたりしあったらよかったのにね。でも当時の私には、視野が狭くて、そんなことを考える余裕がなかったんです。

贈れないと思うことは、自分の豊かさが信じられていないことの現れです。そういえば金欠なときほど、ホームレスの人に寄付するという友だちがいました。善人に見られたいからではなく、与えることで自分に豊かさや愛があると実感できるからだそうです。すがすがしいですよね。

ブッダが貧しい人から托鉢にまわれと弟子に言ったのは、貧しい人にこそ与える体験をして欲しかったからです。外側の現実が内側の信念の現れだというエネルギーの法則をブッダも深く理解し、自己肯定感の低さが源となって貧しい現実を創造し続けている貧民たちのエネルギーを転換させたかったのでしょう(※)。

(※)わかりやすくエネルギーの法則が書かれた一冊。マンガでわかる「幸せ」の教科書

私は好きなことをやっているふうで、頭のなかでは、結果を出さないと、ネタがないと、ハッピーエンドにならないとって、自分のことを追い詰めていたんだと思います。まだまだ自分の源の豊かさを信じる余地があるっていうことですね。

今は本当にそんなこと、一番重要なことじゃないって前よりもずっと深く思います。ここに書いていることをもっと深く生きたいです。

今この瞬間の心地よさを常に選び続けるってことは刹那的じゃなくって、実に人生と深く向き合うことであり、ホリスティックに生きる意味でもとても大切だと実感したから。

エッジに追い詰められるほど、それが前よりも深く理解できるようになるけど、このパターンも変えたいな。追い詰められなくてもすんなりそれを選べるようになりたい。そのためにはとりあえずの素直さが肝心だな。

アメリカにいた頃は、日米間の小包が届いても、送料を見るのがとにかく恐ろしくって。友だちからおいしいお茶やかわいいお菓子やら強力な耳栓やら、東京のセンスをふわっと感じられる贈り物を受け取っては、ありがたいのと申し訳ない気持ちが混じりっていました。私はなんにもお返しができないなぁって。

それからお返しできない状態が当たり前になって、ちょっと無頓着になってしまったんでしょうね。受け取ったエネルギーを禅センターなどで奉仕して循環させたらいいわと。贈ってくれた当人には、お礼のエネルギーをしっかり届けられていなかった。

世界のこと、自分の源を本気で信頼していなかったんだと思う。そして今の私は、当時贈ってくれた人たちと疎遠になってしまっています。

帰国してから病気になるまでの間、それを曲解した私は、やっぱりいただいたものはお返ししないと、その人と同じ波動にいないから縁遠くなってしまうのかな。そんなふうに感じ、ふたたび日本で暮らすようになってからは、もらいっぱなしになることが怖くなったんです。

返せないものを受け取ってしまうと、その人たちと同じ世界にいられなくなっちゃうのかもしれない。与えられないなら、受け取らないほうがいい。受け取ったからには、すぐに返さないといけない。むしろ贈り続ける方がいいと、だいぶ頭でっかちになっていたんですね。感じ方よりも考え方が先行していた。

でもエネルギーの交流って、そんな卓上計算機みたいな話じゃない。ハートをオープンにして愛を受け取って、自分の源を信頼して、自然と贈りたくなったときに愛を交流させるという話で、物理的な交換は本質ではない。それが頭でわかっていても、実生活で生きるというのにはまだズレがあって、より深い理解が必要なんだなぁー。

今回の病気が実際の行動と信じていることのズレを顕著にしてくれました。それを教えてくれたんだと思う。

愛はエネルギーの交流だから、受け取って贈ってを循環させたい欲求と、贈れないことが怖くて無意識にハートを閉ざしてしまう行動パターンとのズレ。それを合理化するために体が一緒にシャットダウンしたんだな。アメリカの心理学者フェスティンガーがいう、認知的不協和がリアルに繰り広げられていたのです。

キヨちゃんが住所を教えてと申し出てくれたときには、ピークで体が辛く、自分の豊かさに疑念を感じていたときです。それで「あかん!そんなお金を使わせてはあかん。負担になっちゃダメだ。また縁が切れてしまう。今の自分はなにもお返しができない。お返しを考える余裕すらないから受け取ってはいけない」と、嬉しくてハートが開いたのちに、それがすぐにギューっと縮んだんです。

そんなやりとりをするなか、バークレーのゆかちゃんから見事な不意打ちで素敵なお菓子が届きました。そして食欲がないなか、ゆかちゃんの贈ってくれたホワイトチョコを挟んだ抹茶のサブレをあばれ食い。

それで双極性障害みたいに、パァッとある日は心が温かくなったり、グワァンと翌日は沈んだりで。「一体どうしちゃったのかなぁ…」としばらく自分のメンタル状態が怖かったけど、良い機会だと内側で起こっていることをじっと見つめていました。

繭のなかのかいこみたいに内へ内へと閉じこもっていったんですね。傷を治そうと何も食べずひたすら寝続けるサバンナのシマウマのように…。

キヨちゃんは辛抱強く待ってくれて、住所を優しく聞き出してくれました。まさに北風と太陽です。すごく勉強になりました。絵本って人生の深いことを言ってるよね。

受け取ったものに触れるうちに、自然と何かお返ししたい!この愛をどうか受け取ってください!という気分になっていきました。それであぁ、こういうことなのね。ギフト経済って、この思いが家族や友だちだけじゃなくって知り合いになって、知らない人になってと、意識しなくても自然に広がっていくエネルギーなのね。資本主義経済でもそれは同じで、そんなエネルギーの延長上にサービスや製品があり、受け取った人は、お金という対価でエネルギー交流しているんだね。だったらなおさら、エネルギー状態を高くするために自分をご機嫌にし続けたい。それに罪悪感を抱くのは、だいぶナンセンスだわ。

今までちょっとエネルギーが頭に集中していたな。少しそれが下に降りることで、体の中のエネルギーが交流して、理解が実感になって腑に落ちていくんですね。ギフトしてくれた冬至のグラウンディングミストも効いているんだと思う。やっぱりみんなが贈ってくれたものはすごい。祈りの力がすごい。

自分のことが信じられないときは、受け取るのが怖いっていう贈られる側の人の気持ちも身にしみてわかりました。今まで私からの何かを受け取ってくれた人への感謝を感じます。これを読んでくれているあなたも。

そんなときに贈る側の人は、自分の愛のエネルギーをより拡大させていく必要がある。より深い思いやりの実践が必要になるんですね。グループソウルの深め合い、学び合い。

受け取ってもらえないと与えられない。受け取らないと与えられない。愛や豊かさは交流することでより豊かになっていく。

贈りたいというエネルギーは自然に起こるもので、そんな純粋でパワフルなエネルギーを込めてギフトされたものは、本当に受け取った人のハートを広げる。心から実感したこの3日間の出来事でした。