home 東京薪割り生活 [23]当たり前と本質

[23]当たり前と本質

時間の流れが加速しているように感じたり、未曾有の事態で不思議な時間の体験をしている人が少なくないそうです。LA Timesの記事によると、心揺さぶる体験をするほど、時間の認識が長くなるのだそう。

 

朝日新聞で読みましたが、坂本龍一さんは今『時間というものは存在しない』ということに基づいた音楽を作っていらっしゃると言います。常識で思っている『時間』というのは実際にはなくて、都市や楽器のように人間が勝手に作り上げたものじゃないかという疑問がとても強まってきたんだそうです。

 

たしかに私たちは自分たちが勝手に作ったものが現実のすべてだと信じることで、縛られてしまうことが多々あります。でも植物なんかを見ていると、芽吹いたり咲いたり枯れたりまた芽吹いたりを繰り返していて、それを永遠とも言え、生死の境目みたいなものも、何を境にするかで全く変わってくるのだなと思います。

 

24時間365日と定めた“絶対”時間のなかで生活する私たちですが、その長さは私たちの主観に大きく影響を受けます。乱暴に聞こえるかもしれませんが、時間も含めて現実というのはすべて「自分の解釈」です。

 

私がアメリカで暮らしたのは4年半ほどですが、大学を卒業して就職し、結婚して離婚し退職した14年間と比べて、同じか、それよりも長く感じます。アメリカにいた時の行動基準は「今まで絶対選ばなかったことをやって、一度思い込みを破壊する」だったので、英語もわからないのに研究室に飛び込んだり、ホームレスになったり、スピリチュアルセンターや居留地で生活したり。アルツハイマーの恩人と生活したことも、居留地で床にしいた鹿革の上で寝たことも、VANで寝泊まりしてみたことも、誰の家かもわからないお金持ちのゲートで囲われた屋敷(gated community)で、イチゴをつまみながら映画『フリーソロ』を観たりして暮らしたときもありました。結果、そんな「わけがわかない体験」ばかりになって、自分的にその内容も濃く、期間が4倍ぐらいの長さに感じました。

 

それまで、私の人生は至って普通でした。海外で暮らしたこともありませんでした。中学から私立の女子校に行って、大学を出て出版社に勤めて、適齢期になって結婚して、と。あのまま平凡に暮らしていたら、なんらかの役職について家のローンを元夫と返しながら、年金の積立貯蓄の話なんかを友達としていたのだと思います。子どもを自分みたいにお受験なんかさせていたかもなぁ。まったく違う人生です。

 

興味深いことなのですがAとBという選択肢があって、今までの自分なら絶対Aを選んでいたけど、一度そのときピンときたBを選ぶことで、あとにやってくるどんな選択肢も少しずつAからずれていくということがあります。

 

回を重ねるごとに、そのズレの角度が増すうえに、私の場合は全く違う人から同じことを3回言われたら従うことにしているので、「自分的にはAなんだけど、こんなにBってサインがくるから乗ってみるか」と従うと、さらに不思議な化学反応が起こります。

 

村上春樹さんの『羊をめぐる冒険』なんかで、主人公の人生がどんどん不可思議な方向に進んでいくというのがありますよね。あんなパラレルワールドは物語の世界だけだと私も随分長い間信じていたのですが、どうやら現実世界の仕組みをうまく捉えているなと思います。意識のある階層が変わると世界も変わるんですね。

 

一旦スイッチが入ると、もう何か新しいことをしようとしなくても、意識的に違う選択をしようとしなくても、それどころか自分的にはもうそろそろA地点的選択に戻ろうかなと思ったとしても、不思議が向こうからやってきてくれるような感じで、もう後戻りできないのです。

 

目の前の世界は自分の解釈の産物ですから、そこが自然にB地点寄りになっていると、どんな体験でもA地点的体験にはならないんですね。ただ以前と違うのは、「A地点的目線だと、こういう体験になるんだろうな」というのが少しわかる点です。そのためにはA地点とB地点を対決させないことです。

 

それはスーフィー教の盲人と象のたとえ話のようなものです。耳を触った目の見えない人は、「象とはざらざらして、幅があってじゅうたんみたいに広がっている」と言います。鼻を触った人は、「長くてパイプみたいなものだ。先は湿っているぞ」。そして足を触った人は「がっしりとした柱のようだ」となります。私たちは、触れた場所の情報で「象とは何か」と判断する人のようなものです。「違う!絶対じゅうたんみたいなんだ!」とか「パイプだと思えないなんて、ありえない!」という話じゃないんです。象はじゅうたんのようでもあり、パイプのようでもあり、柱のようでもあって、じゅうたんでも、パイプでも、柱でもないからです。

 

いろんなところへ行って、たくさん違った体験がしたかったのは、A地点もB地点もあるんだということを納得したかったからだと思います。私は物分りがよいほうではないので、気がすむまで肌で感じないと腹に落とせなかったのです。でもそんなことをしなくても「ふーん、そっちからはそう見えるんだ。私はこう見えるんだ。そうなんだ(以上)」と、当たり前のように感じられる人もいます。私たちはそもそも解釈や視点のヴァリエーションを体験しながら、自分を知るために生まれてきたので。ちなみに良寛さんを尊敬して2年間ホームフリー生活をやったことで、私には快適な家が必要だなというのがわかりました。でもって、昔みたいにたくさんの洋服が必要ないことも。やってみて、納得。己を知るです。

 

けれども私とは違って、別にいろいろ体験しなくても解釈のヴァリエーションを理解し、象の全体像を捉えられる人もいます。それは本当の賢さ、本質をつかむ視点でしょう。旅のスタンプ帳のハンコを必死に集めてレベルアップしようとしたり、”やった、やらなかった”、”出来た、出来なかった”と比べて一喜一憂しなくていいんです。ただコントラストのなかで自分を知り、今日も生きていてすばらしいと思えるオリジナルの人生を作っていけばいいんです。個性を広げるためにも、自分と全然違う意見の存在が必要なんですね。それに抵抗するわけでも、盲目的に従うわけでもなくって、”違い”を感じて、”私はこうかな”と自分を知るために。

 

ここで私の好きな老師の言葉をシェアします。

 

Without going outside, you may know the whole world.
Without looking through the window, you may see the ways of heaven.
The farther you go, the less you know.
外に向かうことなく、あなたは世界全体を知るだろう

窓から眺めることなく、あなたは天の道を見るだろう

遠くにいくほど、知ることは乏しいのだ

 

Thus the sage knows without travelling;
He sees without looking;
He works without doing.

よって賢者は旅することなく知る

その人は眺めることなく見る

その人は動くことなく成す

老師の「道徳経」より。