home 東京薪割り生活 [36]道端の千円札から自己愛を学ぶ

[36]道端の千円札から自己愛を学ぶ

駅に向かう道すがら、薬局チェーン店と昔ながらの珈琲店に挟まれた道路に折れた千円札が落ちていました。クリーム色のカーディガンに膝丈のスカートを合わせた品のいいOLさんがそれを拾い、ちょっとためらいがちにしています。

 

「天からのギフトです! 話題のシートマスクを薬局で買うなり、珈琲店で名物ミルクレープをいただくなり、好きに使ったらいいですよ」とおもわず声をかけそうになりました。こういうとき、マスクは私のいらぬおせっかいを封じ込めてくれる優れものです。

 

電車を待ちながら思い浮かぶのは、彼女の躊躇した顔。マスクごしでも「一体どうしたらいいんだろう」「ちょっと嬉しいような気もするけど」とその目が十分心の内を語っていました。

 

自分が彼女の立場だったら、どうするかな。

 

お金を落とした人はショックだろうし、「しもたぁ!」というその思いまで受け取ってしまうことで、むしろ千円札がマイナスに働くかもしれない。よくわからないエネルギーを受け取ったら、妙な因果を背負うかもしれない。バチが当たるかもしれない。宝くじが当たって人生が転落してくような、アレ。手に負えないと、やはり交番に行くかな。

 

こういうゼロサムゲーム的な固定観念こそが、豊かさを循環させる器じゃないってことなんかなぁ。

 

しかし、まぁ目の前で千円札を拾った人に遭遇するなんて、めったにないことだし、ツイてるってことかな! と、思った瞬間に、自分が変わったと思いました。昔だったら、「交番行くかな」と思って終了だったからです。おなじみの「良い、悪い」「正しい、間違っている」という一律の考えが勝利の旗を揚げたでしょう。でも今は違って、もっとゆるっとしています。彼女を主人公にしてその一日を書いてみても面白いかもしれないとか。

 

ところで帰国したばかりのころ、家主であるヨーコちゃんの山伏修行の師である先達に「おまえは結論をすぐだそうとする。そんなもの、でないままでいい」と諭されたことがありました。

 

その後1か月ほど経つと、先達に「おまえ、なんか変わったな。表情がよくなった」と言われました。嬉しかったです。とはいえ外側のあれこれはなにも変わっていませんが、心が揺さぶられるようなことが起こって「有り無し」と結論をだそうとしたら、そうしようとしている自分に少し気づけるようになったのが違いかな。「それはそれで」とそのまま記憶として蓄積できるようになったのです。

 

それは、自分が正しいと思っている考えを貫いても、さほど気分がよくならないんだなと気づいたからです。一緒にいていい感じだなぁと思う人たちも決まってそんな感じ。カリカリしてない。

起きるにまかせたほうが、なんかいい感じなんです。

 

「何にもなし」というもっとも恐れていた状態で帰国してみれば、ヨーコちゃんのおかげもあって、今まででもっとも広くて緑いっぱいの家でひとり暮らすことができ、生活ぎりぎり一歩手前になると何か友だちや恩師経由で頼まれごとがやってきて乗り切れ、あとの時間はたっぷりあって、学んだり、書いたり、学びを内省して行動に移して観察することができるという、はたから見たら綱渡りかもしれないけど、恵まれた状況にあります。

 

こういうのは絶対ムリと思っていましたが、経験してみると、腹さえくくれば、あまり決め込みすぎないほうが周りの人がいろんな学びや経験を運んでくれるように感じています。そのうえで「ちょっと妙だな」と思うことはそのつど判断で、乗らなければいいのです。不払いになりそうことがあったのは、わたしのほうにも「この人に引き上げてもらいたい」とか「このご縁がないと仕事がなくなるかも」という欲望や恐れがあったからでしょう。それはやっぱり外に出して分かち合うにしても、個人的にあまり心地よいエネルギーではありません。

 

だから面白いな、心から価値を提供したいな、喜んでもらえるとさらに嬉しいな、という気持ちが湧き上がったときに放出することだけ気を配っています。それでもうまくいかない場合は、一度は都合よくされるのも勉強とわりきって、自分の仕事をする。二度目はなし。相手に貢献できていなさそうなことは、突破口が見つかるまでは一旦引き上げて関係者を喜ばせられそうになるまではひとりで準備する。すると思いがけないところで、サポートや豊かさが受け取れる。前にもまして目に見えないつながりを実感しています。

 

アメリカにいたとき、禅センターやスピリチュアルセンターでの共同生活では、90人規模になることもありましたので、自分の人生に不可欠な大きな癒しと学びになりましたが、ひとりになりたくてもなれないのがストレスでした。一室を何人かでシェアしたり、ひとり部屋でもくしゃみが聞こえるぐらい壁が薄いので、壁ごしに「薬はいらないか」「昼食食べるか」など会話したり、息が詰まっても友達に電話がかけられない。どんな気分になってもほぼ一日中働いたり修行したりで一緒。だから「静かに内省できる時間と場所が欲しいなぁ」と心底願っていました。気質的にひとりの時間がないと絶対無理だった私が5年間も知らない人たちと共同生活できたことは驚きでしたが。

 

ハウスシェアしていたときも、ちゃんとした契約書を交わしていないので、家主の気持ち次第で明日から住む場所がなくなっても仕方がない状況でした。そこで物はなるべく持たず、いつでもどこでも行けるよう覚悟していました。いつも嫌われないように息を殺し、どこか気が張っていました。

 

だから、「ひとりの時間が持てて、思う存分本を読んだり、罪悪感を感じずに自由に書いたりして過ごせる緑に包まれた家で暮らしたい。風呂付きで!」と強く願っていました。

 

「それにはものすごくお金がかかるだろうなぁ」と思っていましたが、

今思いがけない形で、そういうふうになっています。

 

外側のあれこれが「絶対無理だろう」という状況でも、思ったことは必ず時間差かつ予想外な形で叶います。「これをこういった方法でやろう」と決め込みすぎなければ。でも現実とは固定化したものではないので、この緑いっぱいの家で暮らすという幸せも永遠ではなく、今を感じ切って、「こうしたい」という思いを行動に移す繰り返しで、進行形的なものだと思います。明日この現実がなくなったら悲しいけど、「それはそれで」と淡々とスーツケースに荷物を詰めている自分がいると思います。

 

そんな諸行無常の世界を説いたのが、ブッダの教えとされる『般若心経』です。英語ではHeart Sutra(ハート・スートラ)と呼ばれます。そこで「眼は無く、耳は無く、鼻は無く、舌は無く、身体は無く、心は無い」と唱えられます。英語だと「No Eyes! No Nose!」とNo, No, Noと唱えるうちに、「えぇい、どうでもなれい!」とやけっぱちになってちょっとスカッとします。

 

『般若心経』で説かれるように、エゴに囚われた私たちにはありのままの現実を捉える力も、考える力もなにもないという宇宙の真理を示してきたのがブッダやイエスキリストです。それがのちに宗教になることで、「これが正しい、これが間違っている」という決まりが作られました。ブッダやイエスがのちの現状を見たら、「そういうことを言いたかったわけじゃないんだけどな」という気分になるんじゃないかな。

 

『般若心経』といえば、偶然Kazuaki Tanahashiさんが書かれた英語の解説本の日本語訳をしています。Kazさんは私が知っている人の中で指折りの「言っていること」と「やっていること」が一致する人です。そこで依頼を受けた後「喜んで!」と二つ返事でお仕事を受けしました。Kazさんとしても帰国した後の私のことを心配してくださっているのです。本当、ヨーコちゃんといったりKazさんといったり、ありがたいご縁です。わたしは決して器用な人間ではありませんが、信じられないぐらい良い人に恵まれるんです。今までそれだけでやってこられた気がします。

 

しかしKazさんのご著書を開けば、サンスクリット語や漢文が混じっていて、その難解さに頭を打ったのですが、これもいつもの法則と同じ、「わからん」「わからん」と思いながらもかじりついていると、本のほうも脳みそも「しつこいな。歩み寄ってやるか」と折れてくれ、40ページほど訳したところで少しずつ理解できるようになってきました。

 

翻訳したなかに、チベット仏教の高名な師チョギャム・トゥルンパの言葉がありました。彼はこの経典の実際の意味は、“私は私の眼を愛し、私は私の耳を愛し、私は私の鼻を愛し、私は私の舌を愛し、私は私の身体を愛し、そして私は私の心を愛します。私はこの全てに思いやりを傾けます”だと述べています。

 

自分の考えこそが正しいと信じ込んでしまう、エゴ(自我意識)が持つ痛みは、目の前に起こるありのままを受け入れ、それを認識する自分を菩薩の心で愛することで解消されると彼は説明しています。それこそがこの経典の教えだと。

 

ところが彼は晩年アルコール中毒で身体を蝕まれ、48歳の若さで亡くなりました。頭で「自己愛という薬」が真理だとわかっていても、どんなに高名な師であろうとも、それを実践するのはたやすいことではありません。エゴや固定観念は圧倒的リアル感でそれこそが正しいと迫ってくるからです。けれども見たり聞いたりした理解だけではエネルギーは働かず、心を緩めて、信じて、自分を好きでいられることを行動に移す。うまくいくように必死になる必要はない。うまくいくことを許してあげたらいい。誰に頼まれなくても気づいたら魂を注いでいるようなことを淡々とやればいい。豊かなエネルギーを動かすには、実践より他ないのだと思います。