離婚して思う、『82年生まれ、キム・ジヨン』が私たちの胸を打つワケ。

主人公が同世代ないっぽうで、私は離婚しているし子どもも居ない。「感情移入できるかな?」と思ったけど、号泣しまくった。隣の席に座っていたおばあちゃんは、お菓子の包みをガサガサ言わせたりパンフレットを落としたりと物音を立てるタイプだったので、その横で「映画の世界に没頭できるかなぁ」と不安だった。でも映画が始まったとたん、彼女は集中して微動だにせず、同じポイントでむせび泣いていた。つまりこの作品は、どの年代も、結婚していようがいまいが、仕事をしていようがしていまいが、子どもがいようがいまいが、自分の今ある立ち位置で共感できるものなんだと思う。

1982年生まれのキム・ジヨン氏は3年前に結婚し、去年女の子を出産した。出産を機に退職し、会社員の夫の給料で生活する専業主婦である。夫は帰宅すると娘をお風呂に入れたりと手伝ってくれるが、基本的にはワンオペ状態。それを当然とみなす社会では、娘を公園に連れて寒空の下カップコーヒーを飲みながらあやしていると「俺もダンナの稼ぎでコーヒー飲みたいよなぁ。ママ虫もいいご身分だなぁ」と見知らぬ会社員たちに陰口を叩かれる。ジヨンの母世代に至っては、夫が家事を手伝うことなど皆無。「お母さんも先生になりたかったんだよねぇ」という母は、兄弟たちの進学のために学校を辞めて働いた。そして出産した後も教師の夢を捨て、娘たちを学校にいかせるために食堂で働き続けた。

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ちなみに映画のほうが本よりも、コン・ユが好演する夫が協力的に描かれている。あんな小顔で背が高くシュッとした男性(しかもどこまでも心優しい)が夫ならハッピーじゃないか?、という疑問が本だと生まれる心配がない。ただし映画の場合は、目の保養になる(文句なしにコン・ユは、かっこいい)。

私の母は東京の大学を卒業した後、就職するなんてとんでもないと、京都の実家近くの大学で教授の秘書をして父と出会い結婚。専業主婦となった。祖母と違って髪を結うのが上手で、小さいときはリクエストした通りに仕上げてくれた母。ある日リボンを綺麗に結んでくれながら「本当は美容師さんになりたかったの」と打ち明けてくれたが、それがすごく意外な夢でビックリした。

離婚したときは「あなたの決めたことだから」と応援してくれた母に、アメリカで勉強するために会社を辞めると打ち明けたときは、泣かれてしまった。時代や家風により彼女には許されなかった、社会で働いてお金を稼いで自立する娘である私を誇らしく思ってくれていたのだと思う。そして私が仕事を無くすことで無収入になって生きられなくなることへの心配も。

そしてアメリカに渡って2年間心理学を勉強した後に、4か月ほど禅センターで暮らした私。それはニューメキシコ州のUpaya Zen Center(ウパヤ禅センター)というところで、作務衣姿で20〜100名の食事を作り、トイレ掃除や草むしり、毎日3時間の坐禅にアルファベッド版の「般若心経」を唱えるという生活を送った。僧院長はジョアン・ハリファックスという70代の白人女性だった。

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ハリファックス老師の新刊。崖っぷちに立っても、燃え尽きないためのヒントが散りばめられている。すべて実践が故の言葉だから、説得力大あり。

ある日、「いったい何のために坐禅しているのか」、「時間のムダ使いのような気もする」とハリファックス老師に打ち明けると、「日本の女性全員と座りなさい。その痛み、悲しみとともに座りなさい」と返された。女性で禅センターの僧院長をつとめる老師にとって、ジェンダー問題は移民問題、囚人への差別などに加えて普遍的なテーマだった。また実際に日本を何度か訪問した経験から、『82年生まれ、キム・ジヨン』にも流れるその空気感、封建的で、見えないけど確実にある男女の壁を肌で感じていたようだ。

いっぽうそこで生まれ育った当の私といえば、女性であることで損したと思う以上に、楽しいと感じることのほうが多かったし、フェミニスト的な動きもあまり好みじゃない。しかもそのテーマって私の坐禅には壮大すぎるわと面食らっていたら、それを察知した老師が「あなたのお母さん、お祖母さん、曽祖母さんの心と一緒に座って、その痛み、悲しみを抱きしめて、思いやりと愛に変えようとしたらいいのよ」と言いかえてくれた。それなら出来そうと取り組んだ。

そして数か月が経った昼食のテーブルで、なぜか全員の結婚歴が話題になる。老師は今こそ禅センターの尼さんだけど、元々は人類学者でアメリカ先住民のシャーマンの薬草を研究していた。そして元夫であるスタニスラフ・グロフ博士は、トランスパーソナル心理学におけるLSD(ドラッグ)を使ったトラウマ治療の先駆け。彼はLSDが違法になってからは、特殊な呼吸法を開発し(ホロトロピック・ブレスワーク)、代わりに用いた。

ということで老師がざっくばらんと「まぁ私の元夫はご存知の通り、グロフなんだけど」と話した。その流れで私も「バツイチです」としれっと告白すると、全員が仰天した。ちなみに結婚していたときは指輪をしていてビックリされたし、なんとなく私には、そのへんでのうのうと生きる野良猫的な空気感が漂っているのかもしれない。自覚がない分に、恐ろしい。

「しかも離婚したのは親戚一同、私一人だし。俗にいうブラックシープ(※)ですね」と言った後で、ハッと思い出した。たしかに離婚したのは当時私だけだったけど、嫁ぎ先を出た人は他にもひとり居たなと。

(※)black sheep。相場は白と決まっている羊のなかの黒羊ということで、家の厄介者のこと。こういう英単語だけはすぐに覚えて使いこなした.

まだ二十歳そこらの彼女は、嫁いびりに耐えかねて実家に帰ろうとしたけど「一度嫁いだものは終生新しい家に尽くしなさい。そうでなければ一家の恥。帰る家など無い」と門を開けてもらえず、絶望。働いたこともないし、この先幼子を抱えてどう生きていけばいいのかと袋小路になって、船から身投げしたという大伯母。たまに実家に帰ってソファでお尻をかきながら、父のピーナッツを奪って食べる私とは大違いだ。ちなみに大伯母の悲劇は、『須磨の仇波』という新聞の連載小説になって映画化され、須磨寺には彼女と娘の母子像が今もなお祀られている。

 

これはまったく忘れていた話だったけど、老師に言われるがまま先祖の女性たちと坐禅し続け、ひょんな話題でそれがポッと思い出された。そこで4か月の住み込み修行を終えて一時帰国した際には、生まれて初めて須磨寺と、兵庫県の片田舎まで父と一緒に彼女と娘のお墓参りに行った。その墓は土居家の墓群にあり、誰も訪ねてこないから朽ちて、他に比べて大きさも小さかった。

そのときに、「なるほどなぁー」と妙に納得したことを覚えている。

私はなんでこんな生き方をしているのかなぁと、自分でも正直不思議に思うことがある。パートナーやキャリア、持っていたものを失い続けることでしか「こんな何もない自分でもアリ?」を実感できなかった私。ついには家を引き払って、海外のスピリチュアルセンターを渡り歩いてみたりもした。そんな極端なことをしなくても今ある足元を見つめ直すことで、腑に落とせる人もいるのに。ひとつの場所に留まり、一人の人と向き合って理解できる人もいるのに。それがとても素敵なことだともわかっているのに、なんと私は物わかりが悪く不器用なのかと。

でも、彼女の墓参りを終えてしばらくして、「あぁ…。私は、女系の先祖たちがやりたかったけど時代や家の方針や性別によって断念したことが全部できる状況に生まれることができたんだなぁ。だからいろいろやってみたかったんだなぁ。彼女たちと一緒に生きているんだなぁ。何はともあれ、これだけ紆余曲折しても存在できること自体が幸せなことで、この命を預かって生きているんだなぁ」と、実感したのだ。

年齢的に考えて、もう私は、ジヨン氏のようには子どもを持つことはないだろう。だからこの血統を次に直接パスすることは無いと思う。卵子を冷凍保存するほどの情熱もない。でも大伯母と私との関係性のように、傍流から強い魂のミッションが流れてくることもある。だからなるべく未来の人たちが、キム・ジヨン氏や大伯母やそのほか女性たちが抱えてきた集合的トラウマに縛られず、自分のまま幸せに生きられるように、私のパートをまっとうしたいと思っている。