自己犠牲はもう止めよう。変化に適応しながら繁栄する、成功者の与え方。

ダーウィンは言いました。進化で生き残るのは、一番強い者でも、一番頭が良い者でもなく、一番適応力がある者だと。つまり力の強さや、知性よりも、臨機応変に変化できることが、生存の可能性を決めるということです。そして、大ベストセラー本『GIVE & TAKE』著者アダム・グラント博士は繁栄するためには「ギバー(与える人)であれ」と言います。けれども底辺で落ちぶれて苦しむのもまたギバー。そこで正しい与え手であることが大切だと。一体それはどういうことでしょうか。

 

今日はカリフォルニアの恩人の一人、あきよさんに手紙を出そうと近所の郵便局に向かいました。残念ながら年内はどうも訪ねられないなと思ったからです。ちょっと彼女っぽい粋な柄の和紙が見つかったので、それで折り鶴を折って手紙に添えていたのですが。

 

「これ、手紙以外の何か入っていますか?」

「折り鶴が入っています」

「残念ながら新型ウイルスの影響で、手紙以外のものは今何もアメリカに送れないんです」

「元気になってもらおうと添えたのですが…」

「お気持ちはわかります…。残念ですよね。

 でも送り返されてしまったら元も子もありません」

「確かに。では今後何か送りたいときは小包の場合は送れますか?」

「飛行機が今ほとんど出ていないので、船便になりますが、

 それも中継ぎの港を何箇所か渡りますので、到着がいつになるか

    正直全くわからない状態なんです…」

「なるほど…。大変なことですね」

「本当に。申し訳ありません」

 

そんなやりとりをしながら、今まで当たり前だったことがいかに有難いサービスが繋がって成立していたのかを気づくことが出来ました。激動の中に私たちは在りますが、ふと自然に目を向ければ春爛漫。河原で美しく咲いていた野花を摘んで、今日送れなかった折り鶴と一緒に机に飾ってみました。

 

とある日は駅前のスーパーで食材の買い出しにいく途中、開いているお店はお弁当やケータリングを始め、イタリアンレストランなどはパンやボトルワイン、ゆがいて出せない乾燥パスタは製品のまま販売していて、その対応力の良さと逞しさに刺激を受けました。

 

一方でいつも賑わっていた名物珈琲店。訪ねたことがありませんでしたが、その奥まった店造りゆえに、馴染み客も三密を避けねばと客足も遠のいていました。素敵なカップに丁寧に淹れる珈琲がウリの店が店頭でテイクアウト販売をしたら、それはそれで画期的だとは思うのですが、それはしないとポリシーを貫く変わらなさもまたブランド力だと思うんです。

 

そこで「街からこの店が無くなって欲しくない」と思って、珈琲豆を購入してみたら、家で煎れて大ヒット。つやつやしたとても綺麗な豆で、香り高く、ほろ苦い風味も好みでした。すごく美味しかったので、また買いに行って、今度は店主に美味しかったとお礼を伝えたいと思います。

 

スペインではベーシックインカム制度が始まるそうですし、このコロナで資本主義制度がガタ落ちになるんじゃない?とも囁かれています。そこでこんな記事を書きましたが、しばらく全員が大変な時期を過ごしますが、価値にお金(or資本)を払いたいとするベースの仕組みは変わらないし、資本主義も続くでしょう。人が幸せを追求する限り、サービスは生まれ続け、そのサービスが役立てば、それを受けた人はそれが継続できるように願ってペイバックするものだからです。これは返報性の原理とも言われますが、人には他人から何かを受けた場合に、お返ししたいという心理が働くからです。

 

ただサービスの形は変わっていくでしょう。たとえば店内飲食よりもテイクアウトやデリバリーがメインになったり、授業やセミナーといえば対面だったのがオンラインも当たり前になったりと、形式の主従が逆転することもあるでしょう。あの珈琲店などはYouTUBEなどで自宅でできる名店の珈琲の淹れ方動画なんかを無料放送して、オンラインで豆を販売したりも出来るんじゃないかなと思います。美味しい焙煎豆だから。人間は新しい習慣がつくとそれに慣れて順応する生き物ですが、必要だったり、助けになるものには変わらず価値を見出しますから。

 

カリフォルニア大学バークレー校のケトナー博士は、ダーウィンの自然選択による進化論を深く見つめ、親切なものほど生き残ると主張しました。人間は他の動物に比べて大きな頭を持ち、しばらく立つことも出来ない。とても弱い生き物なので、その種をつなぐ根底にある仕事は自分以外のものを世話することにある。必要とする人々の世話をして、協力していくという能力を進化させたことで、人間は種として生き残ってきたというのです。支え合い、助け合いとは、人類生き残りにおける最も強い本能だと(1)。

 

肉体接触が避けられることで逆に、今までうやむやにしてきたことや、見えなかったものがさらに透明化されていくでしょう。例えば、ちゃんとコミュニケーションが取れるか、人に親切に出来るか、期限を守るか、約束した支払いをするかなど、そういうことがより重視されるのではと思います。つまり人の良さや倫理性が価値を持つのではと。そういった中で、繁栄していくのはやはり、与える人だと思います。

彼は、人には3種類存在すると言います。

 

  1. GIVER(ギバー) 

与える人。与えられたらそれ以上を返す。

 

  1. TAKER(テイカー) 

奪う人。基本与えられようとする。

 

  1. MATCHER(マッチャー)

与える、奪う比率のバランスをとる人。

 

彼はギバーこそが繁栄すると言います。じゃあ、最も貧しくなるのはテイカー?

いいえ、そうではないんです。最も貧しくなるのもギバーなんです。テイカーの餌食になりやすいから。

そこで彼は繁栄型ギバーであるために、テイカーとはなるべく関わらないようにとアドバイス。これは組織や社会が繁栄していくためにも重要なことだそうです。与える相手を選べなんて言われると、ちょっと冷たく感じますか? 

 

でも確かに私の周りの与え続けている人たちを良く見ると、無作為にそれをしていないんです。側から見ていても「あ、今愛想のスイッチが切れたな」と気づくこともあります。これはとても大切で、自己犠牲になると、バーンアウト(燃え尽き症候群)とも言われますが、心身疲れ切って与え続けられなくなってしまうからです。これが本当に重要だと学んだ出来事があります。

私がフランスにあるプラムヴィレッジという僧院でのリトリートに参加したとき、マインドフルネスの父がプラムヴィレッジを創設したティクナットハン師だとしたら、マインドフルネスの母とは尼僧のシスター・チャンコン。

 

彼女は様々なワークショップをされていました。そこで気づいたのは、彼女は不必要に愛想よく振りまいたり、目があってもニッコリしたりしないんです。一見、ちょっと無愛想にも見えるぐらい。参加者の質問も答えたり、答えなかったり。でも彼女が歌う子守唄はエネルギーが高く、始まったらもう参加者全員即爆睡です(笑)。

 

決して自分を見失わず、すべてを捧げて燃え尽きてしまわないように、「ここぞ」というときにバーッと集中して多くを与えるんですね。それは余計なものにエネルギーも時間も囚われず、自分を含めた全員の利益を最大にするような与え方です。

 

三福田(さんぷくだ)という言葉によれば、与えて実りになる相手とは、敬田(きょうでん:敬うに価する人)恩田(おんでん:ご恩を受けている人)悲田(ひでん:本当に困っている人)だそうです。

 

生物である私たちはすべてを避けることは決して出来ません。この肉体を持って生きる時間も限られています。けれども災いが起こると、私たちは新しい生き方を探ったり、死は生の終焉ではなく、同じ生が別の生に形を変えて移行することだとも悲しみの末にハッと知ることが出来ます。私は大切な人を亡くすたびに、それらは形を変えて存在するのだと感じます。母が大好きな祖母を亡くしたときに言ってくれたことがあります。

「本当に人が亡くなるのは、その人のことを誰も話さなくなったとき。

 だから、これからもおばあちゃんの話を一緒にしようね」と。

それ以来、私はそれを信じています。そして良い死というのは、良い生と在るということも。

 

自分の持っているものと時間を注ぐべき相手と注ぐべきことはなんだろう?

この引きこもりは、それを振り返る機会を贈ってくれているように感じます。

  1. https://greatergood.berkeley.edu/article/item/darwins_touch_survival_of_the_kindest