悲観的な脳の設定”ネガティビティ・バイアス”を外し、正体不明の不安、心配を緩める方法。

不安に反応する脳の設定”ネガティビティ・バイアス”。

なんだかよくわからないけど不安だったり、落ち込んだり。前向きになりたいのに、気が滅入ってしまうことってありませんか? そんなふうに私たちが不安になったり、ツラくなってしまうのは、自然なことです。私たちの脳は“ネガティビティ・バイアス”と言って、大なり小なり現実の明るいことよりも暗いことのほうが気になるようにできているから。

でも実は、これは生まれつきではありません。生後7か月ぐらいまでは逆に良いことのほうに反応しやすく初期設定されています。例えば6か月から7か月の赤ちゃんは、怖い顔や怒った顔よりも、ニッコリ笑顔でいる大人のほうが反応するという研究結果もあります。でも生後12か月ごろにそれが逆転。大人が怖い顔をするとビビっておもちゃに触れなくなり、その後ニッコリ笑ったところで、もう赤ちゃんのモチベーションが上がらなくなるのです(1)。でも、いつも不安や心配に影響される必要はありません。でも、このネガティビティ・バイアスという思考回路は、プログラムし直すことも出来ます。具体的な方法を説明する前に、まず私たちが何をネガティブだと恐れているのかを見極めましょう。

不安は究極的には「死=負け」という固定観念で起こる。

さて、脳がネガティブなものに影響を受けやすいというのは、私たちが持つサバイバル機能です。危険や苦痛の可能性を早めに察知して避けると、生き延びる確率が高くなる。そこで、脳にインプットされているのが「避けるべきは“死”」という絶対的なコードです。生物として種をつなぐという目的を果たさねばならないからです。そのコードは個人的にも社会的にも共有され、ゲームをすれば「死は敗北」とゲームオーバーになり、仕事を失うと食べていけなくなると心が追い込まれ、嫌われたら終わりとピンと来ない意見にも相槌を打ち、病気になると「ガンに負けたくない」と治療を頑張ることが推奨されると行ったように、“死=NG”という固定観念が浸透しています。そこで私たちがNGとしているのは、”死ぬこと”。でも、それって本当にそうなのでしょうか。

当然私も、死ぬのは怖いです。苦しむのもできれば避けたい。親が延命治療を拒否した場合に、100%なんの心の曇りもなく、その意志を尊重できるかというと、自信がありません。亡くなった人のことを思うと悲しくなります。でも、死が負けとか、それが絶対ダメだとする社会的プレッシャーには違和感があります。その人らしく生きたのなら、死もその結晶なのだと思うのです。

私たちが死を良くない、恐ろしい、と避けたくなるのは、それが一体なんなのかがよくわからないからというものあるでしょう。子どもの頃、死についてこんな詩を書いたことがあります。

「死んだら」

死んだらどうなるのかな

天国に行くのかな、地獄に行くのかな

死ぬ前に知りたいけど、死なないとわからない

というシンプルすぎる詩でした(詩と言えるのか?)。そこに切なる思いを汲み取った担任の先生がラジオに投稿し、パーソナリティーの道上洋三さんがこの詩を読んだ後に「確かに彩ちゃん、死ぬのはわからないよなぁ。怖いよなぁ」と言って、六甲おろしボールペンを景品に送ってくれました。タイガースの虎柄で、クリックするたびに、六甲おろしの歌詞が出てくるペンでした。

正体がわからないから一層怖い。死とはどういうこと?

子ども時代からずっと、正体がわからないことでなおいっそう、怖い死。『デジタル大辞泉(小学館)』の「死」の最初の意味は、「命がなくなる」ことです。医療ドラマなどでは、命は肉体的な現れに特化され、具体的には、心臓が停止し、呼吸が停止し、ペンライトの光に反応せず、瞳孔が開いていると“○時○分、ご臨終です”と医師が告げます。一般的には、死は生ではないもので、その違いは肉体の状態で分けられるとされます。

いっぽう般若心経では、空という言葉で、本質的には、生も死も無いと説かれます。それは種から芽が出て花になり、枯れて種になり、また芽が出るといった状態の変化に過ぎないと。そしてこの世界とはすべてが移り変わり、こうだと感じること、考えることですら、実体は無いとされます。そんな実体のない無常の世界で、泣き笑って、喜び怒って、良いことや悪いことをし、全体として一つの宇宙を作り出している私たち。

この件に関して、カリフォルニアのタサハラ禅センターで出会ったポーランド系ユダヤ人の女性に叱られたことがあります。彼女と会話しながら私は「死んだら肉体は無くなるけど、酸素、炭素、窒素などに分解されて、それがまた結合して何かになっていくわけだから、命は永遠だと思う。結合するときには、私たちの思いや体験が適合性のようなものを作って、引き合いやすいものがつながって新しい命の現れを表すのだと思う」と言いました。

すると「では、アウシュビッツ収容所に投げ込まれたのも、引き寄せあった適合性のせいというのか!」と論争になりました。アウシュヴィッツは言葉にならないぐらい酷いものだし、そんなナチの方針に一次加担していた日本で生まれ育った者として深い反省と責任を感じています。でもそういった良い悪いということとは別として、自分の人生を振り返るとやはり、この世界の成り立ちには空や因果応報で説明できる普遍的なメカニズム、基本原理があるとも私は思うのです。

「死は新しい命の始まり」とするメキシコ人の死生観も。

さて、メキシコには一年に一度、死者の日というお祭りがあります。そこでは、死が持つ恐ろしい、得体のしれない、暗いイメージはありません。明るいオレンジ色のマリーゴールドの花で町中が飾られ、ピンク色のガイコツ型の砂糖菓子には自分の名前を書いて、いつか訪れるその死を思うのだそうです。メキシコ人にとって死とは新しい命へと生まれ変わる一つの過程。私も、そう感じます。メキシコ湾を囲む近隣の国ジャマイカでもお葬式では、歌やダンスで故人の人生を讃えるのだとか。

お国違えば死生観も異なり、死=NGとするのは、絶対的な真理ではないのです。だから生が死を避けるためのものとするのは、やっぱり違うはず。「リスクがあるから、本当はやりたいけど出来ない」とか、逆に「時間には限りがあるから」と、疲れていても休むことに罪悪感を持ってしまうのは、生きる時間が蔑ろにされている感じがします。長生きできたら素敵だけど、長さ以上に、幸せに生きる質のほうが重要なんじゃないかなと思うのです。まるで未来を考えないような、無責任な言葉に聞こえてしまうでしょうか。その逆なのですが。

脳の設定を外し、死よりも生の奇跡を堪能する方法。

死を意識するからこそ、今を大切にできる。そういう考えもあると思います。例えば私の場合、就職活動直前に祖母が亡くなったからこそ、ダメもとで受けた出版社に採用されました。震災があったからこそ、生の儚さを思い知って、本当に伝えたいメッセージを届けるために会社を辞めて渡米しました。元夫が亡くなったからこそ、足元を見つめ直そうと帰国しました。そこには、死が怖いとする以上に、生を素晴らしい奇跡と敏感でありたいという願いがあります。脳のネガティビティバイアスは、私たちがNGとしている恐怖から影響を受け続けることがメリットにならないと客観視することで、外せます。そこでは生きているというポジティブな情報を入力することがカギになります。

例えば朝、目を覚ましたことの奇跡を祝う。バカみたいに感じるかもしれないけど、当然のように息をしていることに気づいて驚く。ご飯が美味しく食べられることに感謝する。生まれた以上なにか大きなことを成し遂げなきゃいけないとかでなく、ただ生きているだけで素晴らしく、尊い命に勝ち負けもない。そんなふうに死よりも今生きていることを特別視しながら過ごすことで、悲観的な脳の設定を外すことができます。脳はすぐに「そんなんじゃ死んじゃうぞ」「生きているだけじゃ価値がない」と脅かしてきますが(そういう設定なのです)、それに気づいたら何度も何度も繰り返し生きている実感を味わい、その奇跡に感謝しましょう。

(1)Keltner, D. Oatley, K. & Jenkins, J.M(2014). Understanding Emotions. Danvers, MA: John Wiley & Sons, Inc.