アシダカグモ恐怖症を克服する

玄関の電気をつけようとしたら、照明スイッチの真上に子どもの手のひら大の灰褐色のクモがいた。アシダカグモというらしい。なんなのだ、このグロテスクさは。緑に囲まれるこのマキワリの家で、今まで見たことのない虫たちに遭遇しては、叫び声をあげている。泣いても笑ってもひとりなので、ひとしきり叫び声をあげ終わった後は、覚悟を決めなければならない。

 

淡路島で水晶ジュエリーを販売しているはるかちゃんによると、このクモは「家の守り神」で、ゴキブリを食べてくれる益虫らしい。”Stay Home”キャンペーンの中、人知れず訪れたこのアシダカグモとの逢瀬は、ちょうど4か月半取り組んだ『般若心経(Heart Sutra)』の翻訳をKazさんに送った日のこと。そして、今の私はちょっとした「空(くう) emptiness」かぶれになっている。だから、“巨大蜘蛛イコールタランチュラ並びに毒蜘蛛”というわたしの思考のフレーム(枠組み)はすんなりと破壊され、はるかちゃんのこの一言により、いつになく抵抗なく即アップデートされた。

 

「よし、共存しよう」

 

「こうするのが正解で、こうするのが不正解」。そんなふうに私たちは情報を認識したり、処理したりするときに、自分たちのフレーム(枠組み)で判断している。このフレームのベースは、過去の経験や記憶だ。

 

言い換えれば、目にしているもの、こうだと認識している世界はすべて過去の経験に基づいた残像ということ。それはどこか太陽や夜空の星に似ている。

 

いま確かに見つめている太陽の光は8分前に放たれたものだと言うし、シリウスに至ってはその光は7年前の残像という。恐ろしいことに、全部それは今は亡きお化けなのだ。物理空間という公式の中に当てはめて出来事を捉えたとき、その枠組みを超えるところで実際起こっている現実と、認知できる現実とには誤差が生まれる。

 

「般若心経」で、仏陀がこの人に習いなさいよ、というお手本として示す存在が「観自在菩薩」と呼ばれる覚者だ。その名前のとおり、観自在菩薩は、自由自在に現実を観ることができる。お化けはお化けだと観自在菩薩にはわかる。それがたとえ、目で見たときにはとてつもなくリアルだったとしても。観自在菩薩には、目には見えないロジックが捉えられるのだ。

 

「奴隷解放の父」とも言われるアメリカ合衆国大統領のリンカーンの言葉に、

「目に見えるもの、手で触れられるものを信じるのは、信じていることにはならない。

目に見えないものを信じるとき、勝利と祝福は訪れる」

というのがある。

 

このリンカーンの言葉を出して、信念とは目に見えないものを見て、信じることができないことを信じる能力のことと、ボブ・プロクターが語っていた(1)。

それは、目の前の世界を創造力豊かな内なる目で見るということ。

 

しかしそうは言ってもアシダカグモは、おっそろしく大きいのだ。なんなのだ、この「家の守り神」という敬称に似つかわしくないグロテスクさは。

 

思わず「大きすぎるよー。怖いよー」といって、電気のスイッチを恐る恐る押したとき!

玄関が明るくなると同時に、「お前のほうがずいぶんと大きいぞ」という声がどこからともなく聞こえた。

 

一瞬「ヘッ?!嘘でしょう」とたじろいだけど、ときにはそういうことも起こるんだろう、多分。あぁ、お盆だし。なんかいろいろとあるんでしょう(世界は矛盾があって然るべきなので、なんでもすぐ答えを出そうとするなと、山伏の星野先達にも言われもしたし)。

 

確かにアシダカグモから見れば、わたしは400倍ぐらいのデカさの、ものすごい巨人。それって、どれだけ怖い存在だろう。

 

そう思った瞬間、アシダカグモの勇気に敬意がわいた。

そして賛美と和解の意を込めて、アシダカグモを描くことにした。それがこのアイキャッチ画像である。

 

絵を描いているうちに「でも、やっぱりアシダカグモの脚は長すぎるよなぁ。これがグロテスクさのゆえんだなぁ」と思った途端、「じゃあなんで韓国ガールズグループ・BLACKPINKのリサの脚が長いのにはうっとりなんだろう?」と。また条件付けされたフレームを発見。

 

人生とは、こういった条件付けられてきた枠組み(思考パターン)を見つけて、見えないものを読み取りながら新しい思考と感情を体験していくことなのかもしれない。

言い換えれば、それは「ヒィー」とか「ギャー」とか言いながら、少しずつ、本来の自分が再び目を覚まし、恐れを克服しながら最高のバージョンを取り戻していくという過程。

まさにこのRPGゲーム的な成長過程が、この物質世界に生きる醍醐味なのかもしれない。

 

参考

1.ボブ・プロクター著、岩元貴久監訳『イメージは物質化する』(きこ書房、2013年)